満身創痍の本達 Ⅰ『独逸中世宗教劇概説』

先日、いかにも「黒死館」にふさわしい死闘の末に、三十万を超える高値で初版美本のヤフオクが終了した。勿論それに値する〈値打〉のある本であることは承知しているのだけれど、裏街道をコッソリと渡り歩く身としては、なんだか悲しい。光輝く世界もあれば、世の中、影に沈む世界もあるのだ。
店頭で野ざらしになり、店内では足下に台代わりにされている、そんな死にそうな傷だらけの本を見つけてきては、バラケた束をボンドでつなぎあわせ、無くなった背表紙を革で補強して治療するという作業を少しずつ続けてきた。戦中戦後の厳しい時代に、戦火をくぐり、出版恐慌の嵐をよけてやっとの思いで生き残ってきた、酸化してボロボロになってしまったページも切ない、満身創痍の本達を何で邪険に扱えよう。ローランサンの詩ではないが、「忘れられた本の悲しみ」からわずかでも拾いあげてみたいと思っている。

さて今回の治療済み熟読本は『独逸中世宗教劇概説』永野藤夫著 中央出版社1950刊。
著者〈まへがき〉にもある通り、その原始的な形態故に冷遇されてきた中世宗教劇を、単に歴史的な存在として評価するのではなく、残された文献から、一件一件丹念に紹介し分析した労作である。そこでは、宗教劇という名のもつ抹香臭さばかりではない魅力が語られている。たとえば、上演がどれだけ民衆の娯楽であって、それ故に会場も混乱することが多かったことの例として、こんなエピソードが紹介される。

受難劇等では悪魔がこの役(警備員)をし、禁を犯す者をさらって行って、劇が終わる迄地獄の中に閉込めたりした。同書256p

小さな街の誰が誰だかすぐ判るような中で、悪ふざけが過ぎた観客がみんなに冷やかされながら〈地獄に〉監禁される、劇の終わるまでどれだけバツが悪いことだろう。このエピソードでも判るように、宗教劇とはいっても、いつも聖書の絵解きばかりではなく、ちょっぴり逸脱した題材も取り上げられていて、後の娯楽的な民衆劇の萌芽さえ感じられる。たとえば〈中世のファウスト〉と呼ばれたティオフィルスを題材にしたものなどは、その名前のとおり悪魔との契約、聖母の代願による救済と、全く『ファウスト劇』の原形だろう。最近邦訳のでた『女教皇ヨハンナ (上)』の題材となった「女法王ユッタ」劇さえ存在しているのに驚かされる。教会当局による幾たびかの禁令をかいくぐり、宗教改革の波の中へ消えていった中世宗教劇を、終戦直後の混乱のさなか、当時参照できる限りの文献を渉猟して創り上げられたこの本は、同時期に上梓された『オーベルアムメルガウ受難劇研究』 (1950年) とともに、現在に至るまで書かれたことのなかった中世宗教劇に関する重要な文献だと思う。
なお、大正年間における貴重な受難劇鑑賞の記録があったので紹介しておく。