ユメノ ナカデ イキル

本当に長い間、自分一人の世界に閉じこもって過ごしてきた。とはいえ、精神病理上の自閉症にはなりきれないので、わずかに残った社会性で日々の糧を賤いできた。それだって便宜上の社会性に過ぎないから、自分の中に人を踏み込ませないためには、あれかこれかの選択を人に選ばせないように周囲を囲んできたのだった。その要素が、自分にとっては、本であり、種々の映像であった。それらを堆く、何重にも重ねて、我が身の周辺に障壁を造りこんできた。数少ない友人も、自分と方向の違いが見えてしまった時には、自分のわがままで失ってしまったこともあった。自分の核となるその世界に、誰かが無雑作に入り込もうとするとき、緩やかに、しかし、きっぱりと自分で造りあげた障壁の中にこもって、拒絶してしまうのである。それはもう、理屈ではなく、生理的なものだった。それをある友人がいみじくも〈繭〉と表現したことがある。今でもそれに近いかもしれないけれど、少しずつ外に向かって開き始めている。遅きに失したかもしれないが、まだ手遅れではないと信じたい。
いわば社会的更生は遅々とした歩みで、自分の世界を広げてくれてはいるのだが、まだまだ世間的には閉鎖状態なのかもしれない。それが時々綻びをひろげ、偏屈な、中の自分が吹き出してしまうことがある。特に自分の大事にしてきた話題だったりするから、始末が悪い。突然見せられた、相手の方は、多分戸惑いと共に、お怒りを感じてしまうことであろう。もしかすると最近閉鎖されたあるサイトの方も、その犠牲者だったのかもしれない。普段、見せかけの人当たりの良さを見せているだけに、その方への反応は過剰であったかもしれない。
しかしながら、その方の対応が、自サイトの閉鎖というかたちになったときには、ちょっと待って欲しいとおもったものです。確かにネットでのサイトの公開は自由度が高く、開放も閉鎖もサイト所有者の恣意のままであってもおかしくない。とはいえ、一度公開すればそのサイトの含む情報、資料には公衆性が発すると思っています。たとえ、具体的な反応がそのサイトに向けられないにしても、積極的にそのサイトを検索し、閲覧するという行為に対して、サイトの持ち主は責任が発生する。誰も見てくれない、誰も書き込んでくれていないようであっても、アクセスはなされていると、そのサイト所有者は考えるべきでしょう。現に、そのサイトが閉鎖になってから、当ブログに検索でたどりつかれる方が何人もいらっしゃいます。
どんな作業も最初から完璧を期すことはできません。それは継続、反復の中で少しずつ造りあげていくものであって、どんな作品でも、公開時に如何に完成に近づいたかたちになっていようとも、その底にはそれなりの作業の裏付けがなされていると考えるべきでしょうし、実際、その出来上がりに関してはいつでも、後悔と反省がつきまとうものです。勿論、公開するに際して、好反応を期待するのは当然ですが、それについて問題があれば、それなりの反応があっても仕方のないことではないでしょうか。後悔と反省の反復を続けつつ継続することによって、冒頭に書いた通りの欠陥人間が、そこそこ人付き合いができてきたのも、その継続の結果だと思っています。ネットの世界とは、そもそも自閉的な世界でしょう。だから素天堂のような人格でも続けてこられました。それさえも、拙速なサイトの閉鎖の繰り返しは、自身の思惑に反して、コミュニケーションの拒否にしか繋がらないのではないでしょうか。