機械の眼 或る映畫技師の手記ルイージ・ピランデルロ1916 ノーベル賞文學叢書s.11.1今日の問題社

現在では前衛的な戯曲家としての業績が評価されるピランデルロだが、その文学的な出発は詩人であり、小説家でもあった。この作品が雑誌に連載された一九一五年といえば、映画産業草創の時代、チネ・チッタはもちろんU.F.A.もU.A.もまだなかったころに、映画先進国の一つであったイタリアでのエピソードである。まだ言葉を持たず、《セルロイド上の私生児 「映画の世界史」ロ・ズカ》でしかなかった映画というものの本質を、カメラというその基本的なシステムから、掘り下げた先駆的な作品。

ああ、人もあらうにこの僕が、人間によって人間の快楽のために發見された澤山の機械のうちの一つに、人間の本物の命まで餌に食べさせなければならない次第に立ちいたるとは、想像もしなかったところだ。この機械に嚥み下されたやうな命は、勿論、このやうな時代、即ち機械時代にはあつていいものなのだ。一方から見れば愚かな他方から見れば狂氣の生産だ。愚かしきものは強く、狂氣のものは幾分輕く、俗悪の刻印を捺されてもやむを得ない。335p

一九世紀からの技術革新を飛躍的に押し進めた第一次世界大戦前後、そのスピード感とメカニズムを純粋に礼賛したのが未来派だったとすると、ほとんど同時期にありながら、機械という本来、人間の補助、補強手段だった筈の存在が、じつは人間領域を蚕食し、疎外する存在へといつの間にかすり替わっていってしまうということを、そのもっとも初期に考察したアンチ未来派ともいうべきものだった。

もちろん、この複雑を極めた作品は、単なるその絵解きではなくそれと同時に、奇妙な《恋愛に関する小説》でもある。この作品が恋愛を描きながら《恋愛小説》ではなかったのは、ここには一切の情熱故の至福が描かれていないからだ。話者の出身地である南イタリアの田舎での恋愛悲劇と、時代の先端を走っているかの如き、ローマの撮影所での恋愛アヴァンチュール。その二つの地点を結ぶ一組の男女と、その観察者であり記述者でもある主人公を中心に、登場人物たちの入り組んだ相関図が、壮絶なアンチ・クライマックスに向かって墜ちてゆくのだ。自らの恋愛感情を懲罰にしか思わない女優と、過去の事件にもかかわらずその女性に思慕しながら、彼女の残酷な仕打ちの果てに、彼女の命と引き替えに虎の餌食(文字通り!)になってしまう男の最期。その最期を目の前に、恐怖のあまり硬直しながらもカメラを廻し続け、最後にはその言葉を失ってしまう主人公の語り手。この作品は、その主人公が語る言葉を失った後で綴られた、《自らの存在証明のための手記》だったのである。