黒死館の昔

先日、これから「黒死館殺人事件」を読まれるという方から通販のお申し込みを頂いた。高校生の昔から何度も挫折を繰り返し、辞典作業を自分に科してやっと読み切ったすれっからしの落第読者に比べて、その方はなんと幸せかと思う。思う存分、その不思議世界を味わって頂きたいものである。
校内の図書館で見つけた東都書房版の「黒死館」(今改めてみると、この推理小説大系という〈全集〉の装幀は、真鍋博だった)以前に、澁澤を知り、不思議世界に首を突っ込み始めた高校生は、全編に振りまかれた語彙の洪水に目眩く思いをしながらも、最初の二回位はその降矢木一族釈義で爆死した。なにしろ何が書いてあるのかわからない、ことばの洪水だった。それでも、そこで取り上げられていることばの魔力に取りつかれてしまった高校生はなんとか、同じ本を探し出して手元に置くことにした。
ハヤカワのポケミスで『ドグラ・マグラ』などと共に出ていたのは、渋谷道玄坂にあった「大盛堂」のポケミス・コーナーで知ってはいたが、ポケミス自体は高くて買えなかったのを覚えている。あの頃の「大盛堂」の棚には創元社の「世界恐怖小説全集」もそろっていたと思う。『モーム全集 魔術師』もそこで買ったっけ。
本屋巡りを繰り返すうちに、『黒魔術の手帖』の桃源社地上げ屋ではない)から、『世界異端の文学』などと言うとても素敵なシリーズが開始され、素天堂はそれ以降一挙に〈大ロマンの桃源社〉マニアと化していくのだ。余談はさておき、ユイスマンの『さかしま』だとか『大伽藍』をそのシリーズで読まされていくうちに、やっと「臼杵耶蘇会神学林」のくびきから抜け出すことができた。つまりそういう語彙になれてきたのですね。〈乱歩少年〉、〈SF少年〉から、はれて本気違いの〈オカルト高校生〉が誕生したわけだ。
今のように、大きな本屋に行けば「精神世界の本」の棚があったり、目をひく「幻想文学」の大きなコーナーがあったわけではないから、いろいろな出版社の目録を少しずつ集め始めた。特に有望だったのが白水社の『文庫クセジュ』なのだったけれど、残念なことにオカルティズム関連のシリーズは、『暗号』『秘密結社』『妖術』など、その頃ほとんどが絶版、品切れ状態が続いていた。古本屋通いのベクトルが微妙に変化してきてきたのは、それからだ。かろうじて在庫だった、ルイ・ヴァックス窪田般弥訳『幻想の美学』をガイド・ブックに、大きく道を踏み外していったのである。神話伝説から、シュルレアリスムまで、絵画から文学まで大きく概観するこの「幻想芸術ハンドブック」の手際の凄さは、『世界幻想文学大系』完結以後の現在でも、やっぱりその価値を減ずるものではない。カヴァーが手ずれで切れるほど、読み込み、読み込み、そうやって〈黒死館語彙〉の泥沼に、首までつかる日々に向かっていったのである。