金木犀と性の妖精


年々注意深くなって、その開花を見逃さずにすむので、休み時間と言えば、金木犀探しに出ていた。最盛期の金木犀は、その濃厚な香りとともに、濃い黄色の粟の実状の集合花がまるで〈花が咲いたみたい〉に見える。そんなとき友人のブログにこんな記事が出ていた。あの峩々たる山容と金木犀の満開の香とは。さぞ悩ましかろうと思う。グズグズしているうちにこの間の秋雨でもう散ってしまっている。根元にだけ積もる、濃い黄の雪……。
悩ましいと言えば、待望の稲葉明雄訳が入手出来たので、三十年ぶりの再読。ハヤカワノヴェルズ版『キャンディ』サザーン&ホッフェンバーグ1965。映画化は四年後の1969年(日本公開は1970 角川文庫版はそれに合わせて出版されている)。男子高校生にとっては、まことにありがたい本であったが、手に入れた直後に発禁となり、蔵書整理のあと、素天堂にとっては幻の一冊であった。

いわゆるフラワー・ムーブメント真っ盛りの時代だったから、時流に乗った作品かと思ったが、実際には遡ること六年も前の五十年代末の出版であった。再読してみて、エロチックな幻想でくるんだ、スタイリッシュな反体制という、最も尖端的にみえる六十年代の姿勢を先取りしているのに驚かされた。当時は、台頭してきたサブ・カルチャーの見直しの風潮の中で吹いていた、〈ブラック・ユーモア現象〉の一環としてみられていたのだが、方向はもう少し違っていたのかもしれない。この作品での彼の作家的な対応は、一筋縄どころか、三筋も四筋も捻れきっていたのであろう。主人公〈キャンディ〉の遍歴には、五十年代のパリで暮らす、遅れてきたロスト・ジェネレーションの匂いがする。

映画化された時の印象は、いわば〈性の妖精〉として、どこかの星から堕ちてきたキャンディ像を造り上げていたのだが。その表現は、原作者本人が、原作の地味な所や、映像化し辛い箇所をギャグとして増幅させる彼自身の脚本家としての『博士の異常な愛情』や『ラブド・ワン』で見せたツイストの手法を発揮したのかと思ったら、どうやらそれも違うようだ。主人公のキュートな女の子がスエーデンの子だったのがお気に召さなかったらしい。今見てみれば、六十年代の、まがい反体制風なサイケデリックを見事に表現した、見本のような作品である。
普通に書けばいいとは知りつつ、妙に気負って、ストーリーはあっても厚みのない内容をどうやって言っていいか分からないまま、参考になるかと思って、買ったままで放置して置いた『

レッド・ダート・マリファナ (文学の冒険シリーズ)

レッド・ダート・マリファナ (文学の冒険シリーズ)

』を読んでみたが、結局、悪意の毒気と言う煙に巻かれたまま、その短編集を読み終わってしまった。たしかにテクニックは心憎い程達者だが、何故か感動がない。中身のなさがすごみを感じさせるということなのか。