ムッシュ・ムニエルの世界

自分の蔵書のほとんどを失った時、そこへ置いてきてしまった世界があった。学研版『たくさんのお月さま』以来集めていた児童書のたぐいもその一部だった。最低限、何としても離れられない身体の一部のようなものだけを、薄くまとわりつく埃のようにして、今の街に移ってきた。それだけでも十分なはずだった。だから、「探している」と言いながら、本当は遠ざけていたというのが正しいのかもしれない。それなのに、K氏との散歩のつれづれに、古書肆の店頭で、自分を待っていてくれたかのように手を広げた彼の姿を見た瞬間、時間がいっぺんに三十年舞い戻ってしまった。
佐々木マキ〉というのは、不思議な作家で、本来自分の世界ではないはずの異質な所で生きているのに、何故か、自分に問いかけてくる何人かの作家の一人だった。均一なマーカーで描いたような線で、ニヒリスティックな不可視の世界を見せてくれる魅力的な作品が素天堂のお気に入り。そんなかれが、最初に手がけた絵本がこれだった。

自負心の強い、だからこそ孤独な主人公おおかみが、いった先、いった先で結局呟く大文字の「け」は、多分三十年前の自分、そのままだったにちがいない。当時、所帯を持ったばかりの友人宅に入り浸った、奇妙な人間関係と、その間に生まれた最初の娘との交流を思いださせる。お土産に持っていったその本は、幼い彼女のお気に入りにして貰い、次に出た「ムッシュ・ムニエル」もその仲間に入っていった。今度はひつじだが、やっぱり孤独なマジシャンの心情は、尖っていながら人恋しかった当時の自分を見るようで、いま見ても哀しい。

それなのに、いや、それだから好評だったようで、続編さえ書かれているのだ。自分にとっては過去の写し絵だと思っていた、探す振りをしながら目をつぶっていたその本たちは、自分の外では絵本の世界のロングセラーにまでなっていたのだった。