六十の手すさび  七悪魔の旅作者: ムヒカ・ライネス,西村英一郎出版社/メーカー: 中央公論新社発売日: 2005/07/26メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 4回この商品を含むブログ (11件) を見る

先日。集英社版『世界短篇文学全集6 フランス文学19世紀』を、最初に読んだゴーチェ「死霊の恋」の確認で引っ張り出していたら、巻末の全集内容紹介を眺めていたK氏に、『ラテンアメリカ編』はないのかと聞かれた。一九六三年、この段階では、ラテン・アメリカという地域に全く目は向けられていなかった、何しろ、同全集にでもイタリア、ギリシャ、スペイン、ポルトガルが「南欧文学近代」の一冊にしか紹介されていない時代だったのだ。きっと南米などはタンゴとカーニヴァルの地域にしか過ぎなかったのだろう。
自分の記憶の中で日本語で紹介された、最初の〈ラテン・アメリカ文学〉は、刺激的な同人雑誌『世界文学』での篠田一士訳「不死の人」だと思っていたら、

 ぼくにボルヘスを教えたのは若き荒俣宏である。篠田一士が日本に初めてボルヘスを紹介した直後くらいのことだとおもう。『記憶の人、フネス』だった。

と言う一文が松岡正剛の『千夜千冊』にあった。
多分それがそうなのかも知れないし、もしくは篠田による他のボルヘスの翻訳があったのかもしれない。年代は、『世界文学』の実物が手元にないので確認出来ないけれども、六十年か六一年だったはずだ。
その後、当時の現代文学を中心とした全く新しい視点での『世界文学全集』が、集英社で企画され、その、最終配本が三四巻『伝奇集 不死の人 ボルヘス 篠田一士訳 . アルファンウイの才覚と遍歴 サンチェス・フェルロシオ会田由、神吉敬三訳 . 真実の山 デュ・モーリア 吉田健一訳』集英社1968だった。通常最終配本になる『現代詩集』からも数ヶ月遅れた配本で、書店に並んだ瞬間手に入れたのを忘れられない。前にも書いた武蔵溝の口駅前「文教堂書店」だった。その前後にノーベル文学賞受賞作家として、ミゲル・アンヘル・アストリアスの「緑の法皇」が翻訳されていたが版元が気に入らなくて、購入出来なかった覚えがある。
で、長い前置きからタイトル話である。マヌエル・ムヒカ=ライネス『七悪魔の旅』。『ボマルツォ公の回想1962 ラテンアメリカの文学6』土岐恒二/安藤哲行訳 集英社1984刊で入れ込んだ、同著者の二十年おいて二冊目の翻訳である。最初の紹介があまりにも重かったので、あとが続かなかったのだろうが、それにしてももったいない。
地獄の住民が増えないので、勧誘に行くという話は、古来、コントや民話などでもしばしば語られているが、地獄の重鎮七人が、集団で派遣されるという〈壮大な〉なホラ話は、前代未聞だろう。しかも、それぞれの七つの大罪担当毎のエピソードが実に楽しい。ジル・ド・レの未亡人、西太后、などどれも説得力に溢れている。中でも、ベルゼブルの担当した「暴食」のエピソードは、登場する食の誘惑の説得力で、地獄にいってもいいから食べさせて欲しいと思う。怠惰を司る豊満な美女ベルフェゴールをはじめ、他の悪魔たちも、〈悪魔〉味溢れて、魅力的だが、その中で、妙に身につまされるエピソードがあった。

カリブ海の小島に君臨する「マルタ騎士団」(十字軍由来の騎士団としてはあの聖堂騎士団につぐ名門、聖ヨハネ騎士団の後身である)の総長に対する「アスモデウス」の淫乱による誘惑である。女っ気の全くない絶海の孤島で、世界中のエロチックなアイテム(文章、音楽、古今を問わないイメージの洪水、食餌にいたるまで)を突きつけられ、有無をいわさずその淫欲を焚き付けられた老齢の高潔な総長は、イメージの洪水を浴びながら、その欲望を解消すべき対象さえ与えられない苦悶の中で、昔覚えて、遙かに忘れていたあの技法に溺れつつ、二日二晩部屋に閉じこもった果てに、担架で運ばれる騒ぎに陥ったのである。何とも哀しい淫乱の果てなのだ。四ッ下がりの雨は止まないというが、げに恐ろしきは六十の手遊びである。それにしても、繰り広げられる豪奢極まるズリネタの数々は、もっともらしい文体で語られるナンセンスの極致だなあ。