道玄坂を降る

東京オリンピック前のことだが、溝の口の町から渋谷に出るには、自分にとって二種類の道順があった。当時は終点であった溝の口駅から、東急大井町線で自由が丘まで出て、東急東横線に乗り換える。もう一つは大人はしないが、時間の有り余る子供にとっては一番いい、町を横切って多摩川を二子橋で渡り、玉電で渋谷へ直接出るルートだった。
後者のルートの場合、三軒茶屋で途中下車してしまうことも多かったが、今日は真っ直ぐ渋谷へ向かうことにする。勿論、東横百貨店の店内にあった、玉電の終点まで入ってもいいのだが、終点の一つ手前、大坂上で降りてみよう。宮益坂でバイパスされた渋谷警察から南平台を抜ける国道246号の新道と、駅前を通る旧道の合流地点である。
交番の前を玉電専用線の横の道へ渡り、駅前に向かうと、当時「モップス」や「RCサクセション」の新人時代のイヴェントライブを観た、銀座を知らない場末の子にとっては、洋楽への窓口であった「渋谷ヤマハ」を過ぎたところに、まず古本屋が一軒。
偶然あたることの多い古本屋との遭遇のせいで、素天堂は、実は自分がよく行きながら店名を知らない場合が良くある。そこもそんな店の一軒である。いわば、昔風の何でも網羅的に置いてある本屋さんだったが、結構買い物はしているはずなのに名前を知らないままになっていたのである。
そこを少し降ると宇田川町に抜ける道があって、渋谷駅南口への近道だがそれも後述。そこを過ぎると道の反対側に松涛の方へ抜ける道があって、大きな看板があった。「百軒店」ひゃっけんだなと読む急な坂道の入口には「道頓堀劇場」がある。最近も公然猥褻であげられるという、ストリップ小屋の鑑である。
そこから、入り組んだ路地に出ると一転して、新宿歌舞伎町と並ぶモダンジャズの聖地で、何軒もが競合していたものだった。その中の一軒がジャズ喫茶の手法で前衛ロックを聴かせるようになった「ブラックホーク」で、当時の重要な素天堂の音楽の拠点だった。ルイス・キャロルの詞をフィーチャーした、ドノヴァンの『H.M.S.DONOVAN』を繰り返し聞いたのもこの店だった。このレコードはとうとうLPでは入手できず、CDでの再発売でやっと入手した。
この周辺の変貌ぶりは目覚ましいが、渋谷通いのたびに入っていた、カレーの「ムルギー」は健在である。
道玄坂に戻って坂を降りると反対側に映画館があった。洋画の専門館だったはずだが、印象に残っているのは、岸田森主演の吸血鬼映画「血を吸う薔薇」なのはどうしてか。映画館の前の路地が「恋文横町」。角が当時渋谷で数少ない終夜営業の喫茶店「ブラジル」だった。そこを入って二、三軒奥に今回書きたいお店はあった。
一間間口の狭い店内は、古い洋書の単行本と、タイトルの切られた古雑誌が積み上げられていた。洋書雑本の頁に切り抜きを張り込んで資料として売る、今風にいえば〈紙物〉の元祖のようなこともしていた。いかにも不思議なその店には結構通っていたが、一度だけ植草甚一さんに遭遇したことがあった。遠慮して遠巻きにしていたのだが、それをいったら親父さんに「あの人は読者を大切にする人だから、挨拶すればお茶でも御馳走してくれたよ」といわれて残念な思いをした。そこで買ったものには、六〇年代末の今で言うスチームパンクのはしりのような奇妙なコラージュ画集『Boiler Maker]や、ビアズリイの未完の小説『UNDER THE HILL』にカナダの詩人が補筆したペーパーバックがあったが、もうそれもない。一時は恋文横町の主だった親父さんは、七〇年代半ばに念願の神保町に店を移ったのだが、はたして、あの店はどうなったのだろうか。
道玄坂を降りきると、角は木造三階建ての「大盛堂書店」。まだ大型店の少ない渋谷では貴重な情報源だった。
とりあえず、渋谷駅を挟んだ二つの坂のことを書いてみた。こうやって書いてみるとつきあいの長かった渋谷の町のことは、まだまだ思い出されてくる。今度は、大和田あたりを中心に渋谷駅周辺のことでも書いてみよう。