ディアギレフのフラメンコ

先日の矢代幸雄『太陽を慕ふ者』角川書店1950の感想で、わざと書かなかったことがあった。
それは、きっと書けば長くなるし、資料も参照し直さなければならないし、というわけだった。
実際John Percivalの簡明な評伝『The World of DIAGILEV』やセゾン美術館の『ディアギレフのバレエ・リュス展図録』などで、矢代の証言を裏付ける、演目を確認したところで起きてきたのは、なんでロシア・バレエがフラメンコを取り込んだのかという疑問だった。バレエ・リュスといえば〈ニジンスキー〉だが、ロモラとの結婚を契機とする軋轢から退団するまで彼の在籍期間は何と四年に過ぎない。実際はディアギレフ自身の死の1929年まで、その四倍の期間が存在する。その長い期間は残念ながらあまり語られることはない。影の薄いその時代に、「クアドロ フラメンコ」は上演されている。
リチャード・バックルの『ディアギレフ -ロシア・バレエ団とその時代』リブロポート1984は彼の生涯を追った上下二冊の大著である。そこでは、彼の生涯に渉る〈強烈な美への飽食〉が語られている。自身は一切の創作とは無縁だったが、当時接触可能であった膨大な人脈によって造り上げ、消費されていった芸術の数々はそれ自体巨大な彼の作品だったと云っても過言ではない。
その下巻に、「クアドロ フラメンコ」のダンサー、マリア・ダルバイシンは登場する。何と、その芸名の名付け親はディアギレフ自身なのだ。しかも、肖像入りである。訳者も述べている通り、ギリギリまで図版を削ったこの本で肖像が紹介されるのは、破格の扱いの筈だ。

ディアギレフはニジンスキーのエピソードでご存じのように、筋金入りの同性愛者であったが、舞台における女性たちを評価する目は、いつでも冷酷な程的確であった。その彼がスペイン旅行で魅せられたフラメンコを、上演したくなった時に出逢ったのが彼女である。もう一度矢代の証言を聞こう。
とここまで書いていて、偶然、大正十四年発行の改造社版が手元に来た。そこには、何と当時入手したであろうマリアのポートレートがあった。また、文章も角川版で若干手を入れてあったので、明らかな誤植を除いて元版に戻した。

「マリア・ダルバイシンの美は大變なものだ。ゴヤの女が出て來たら、あんな奴だらう。淺黒い滑らかな撫でて見たいやうな皮膚だ。それを肩まで、いや肩よりももつと外まで出して居て、自然も得意であらう處女の胸の筋肉建築が、威壓するやうに感じられる。(略)それから立派な大道具の顔がある。石炭のやうに黒い眸がそとまで滲み出したのか、瞼までを黒くしてゐる。長い多い睫毛の眼を美しくしていることを、つくづく感じた。黒い貝のやうに輝かしい眼だ、とふと思つたが、何處の海底にあんなに黒い貝があるのかないのか知らなかった。それから大きな口だ。血が滴るかと思はれる赤い唇だ。尚更目立つ白い齒だ。彼女は始めから人を人とも思はないかの如く、平氣で笑つて居る。笑つた時の大きな口の旺盛なる健康美に、壓迫されないものはないであらう。然しながら何と云うても、私に主なる魅力は、あの豊麗なるそして意地悪さうにそびやかす肩だ。ねぢる首だ。S字形にうしろを見返つた時の蓮葉な身振りだ。兩手を上に翳して腋下の筋肉組織の神秘を覗はせる怖ろしい誘惑だ。つまり躯幹トルソであつた。あの美を讃功する心は、社會人から言へば謀反の心であらう。」太陽を慕ふ者50-52p


バレエ公演にフラメンコ・ダンサ−を雇うという試みは、たとえば、
ある日、数人のジプシーが一団となってやってきて、ディアギレフに食ってかかった。パリへ行くには海を渡らなくてはならないと云うことをディアギレフは隠していたのだ。だれが彼等にそれを教えたのか?「角の床屋さ」。『ディアギレフ 下』151p
に代表されるような、抱腹絶倒のエピソードを重ねながらも公演にこぎ着けた。矢代が観劇したのが、パリ、ロンドンのどちらの公演かは不明だが、ピカソの舞台意匠については、に書いた。それにしても、マリアの魔力に魅せられた矢代の証言は直截で、ワクワクする程美しい。
マリアはその後も、映画や舞台でその名で活躍した。ディアギレフの目は確かだったのである。