『イタリアの寺』を読む

板垣鷹穂という名前に出会ったのは、七十年代の初頭、当時でも比較的入手しやすかった、レオナルドについての文献『レオナルド・ダ・ヴインチの創造的精神』 六興商会出版部 1942からだったと思う。その後集めづらいとは言いつつ何冊かの旧著に出会った。今でも凄かったと思うのは、数少ない当時の現代美術の先鋭的な評論『機械と芸術との交流』 岩波書店 1929だった。荒い麻の布地に写真印画紙を直接貼り付けた挑戦的な装幀と、太いベタ罫を多用した本文デザインは、今でも思い出すくらいだ。その壊れやすい装幀のせいかもしれないが、今ではお目に掛かることさえ稀になってしまった。
もしかすると、板垣鷹穂の不幸はその頃から始まっていたのかもしれないと思う。現代美術としての、イタリア未来派芸術は、ドイツでの表現派が、時のナチス政府から排斥されていたのに比べ、ムッソリーニ一統ひきいる、ファシスト政権のオフィシャル芸術となっていったのである。機械への偏愛と、軍隊に対する無条件の肯定(現に多数の未来派の若い画家たちは第一次世界大戦で自ら前線へ出ていき、その大部分は戦死している)は、個人的な、内面に沈殿してゆく表現派に比して、御用芸術化しやすかったのであろう。ちょっと論点が本題から外れてきたようなので大急ぎで『イタリアの寺』に戻ろう。

『機械と芸術との交流』から遡る三年前、大正十五年(1926)に公刊され、「批評と紀行 美術史論」と副題されている。大正十三年、ほぼ一年間にわたる欧州留学における、当時ほとんど知られていなかった〈イタリア〉という国の宗教建築についての著作である。素天堂が現在参照しているのは、それの昭和四年の増補版から添付図面を省略した昭和十一年の普及版である。普及とはいっても収録された画像はすべてコロタイプ版の明晰なものでモノクロの究極画像といってよいだろう。

ヨーロッパの建築史を研究しようとする時、フランス、ドイツにおけるゴシック建築ではなくイタリアという国、ローマという都市を選んだ彼の視点は、様式の変遷と言うことだった。過去において固定した、遺産としての建築様式ではなく、あくまでも歴史として転変を繰り広げてきた建築と人との関わりがテーマであった。だから、ここではよくある各地の伽藍を地図片手に経巡って、過去を追慕する建築史の教科書の追認とは違った新鮮な視点がある。各地に点在する有名無名の小寺院を丹念に追い、ローマにおいても、単純に古典的な古代遺産を礼賛するのではなく、歴史的にはあまり通俗的すぎて評価されることのないカトリック大本山「システィナ礼拝堂」を、その機能として高く評価しているのである。
素天堂的におもしろかったのは、「聖フランチェスコと聖イグナチオ」で、キリスト教の改革に重要な役割を果たした二人の聖者の改革者としての性格を、彼らを祀る寺院の〈様式〉から対照して、示すという離れ業を行っていることだ。そこにある板垣の思考は、あくまでも、現代と過去の関連であった。芸術史、様式史は現代の我々と深く結びついている。例として、ケルンの大伽藍〈DOM〉に関する興味ある彼の感想を見てみよう。

十三世紀に基礎石を置かれた此寺の、完成したのは十九世紀末であった。國民的記念として敢行された此寺の建築事業は詳細な考證的調査に基いて行はれた。然し何と云つても、新しい建築丈にあまり合理的である。時代の味ひを含むだ非合理性が少しもない。それが此寺を冷めたいものにし、模型めいた空虚な感じにする。だが−−何と云ふ偉大な模型であらう!

当時ヨーロッパを席巻していたゴシック・リヴァイヴァルの代表であるケルンの大聖堂への醒めた視線は、過去への固執を拒絶している。民族の個性がその興隆期に花開くと考えた板垣が、イタリアという国に共感し、古典と現代を融合させようとの発想が、当時のイタリア、ドイツを覆っていたファシストの芸術観と重なり、戦中の『古典精神と造形文化』今日の問題社1942となって、結実する。

戦争の終結ナチスにおける思想行動の異常さが、結果的にはその当時共感を持って描いたはずの優れたモダン・デザインとしての〈現実〉を打ち砕いてしまったとしても、彼にとっては、そこに書かれた独伊の文化的現在は理論的には、ある意味、理想の実現なのだったのではないか。それは当時の日本における国粋的な発想とは、一線を画していたはずである。『イタリアの寺』で提示した様式と現代との関係は今でも切実な問題の筈だ。ただ結果的に見本となるべき現実があった時代が、あまりにも悪すぎたのが、板垣の不幸だったのではないだろうか。本人は、国粋的な著作は燃やしてほしいと語ったそうだが、時代の証人には、それを語る義務がある。ましてや、それが本人の理論的帰結であれば、なおさらだ。