ある絵巻

不思議な絵巻を見たことがある。それは聖者伝でもなく、古典を絵解きした絢爛なものでもなかった。周りを囲む作品群は、〈エロ・グロ・ナンセンス〉の真っ只中、狂騒感さえ感じられる華やかな色彩の乱舞だったのに、そこだけは、淡々として、静かな墨一色の町はずれの風景の列なりだった。東京都現代美術館で展観された『隅田川両岸絵巻』と名付けられた作品は、明らかに障子紙に細筆で描かれていた。裏打ちもなく障子紙のまま展示されている「絵巻」は、当時の風潮とはうらはらな場末の風景をシッカリしたデッサンでとらえている。一本の狂いもない描線は、まったく下書きなしで描かれているという。

土手沿いにある釣り堀、釣る人とそれを覗く人、ありふれた光景。当然かもしれないが彼を見るものは画中に存在しない。この長い河岸の光景を切り取った作品を書き上げた直後、画家「藤牧義夫」は、友人達や親族に別れを告げることもなく、何処かへ消え、今に至るもその消息は不明だ。
彼の精神状況は明らかではないけれど、一枚の自画像とある老人を描いた作品以外に、彼の作品には画家の方を見る人物は登場しない。もしくは年賀状には正面の人物らしきものは描かれているものの、画中の人物は黒く塗りつぶされている。画業を中心とした僅かな繋がりを除いて、彼にとって東京は決して温かいものではなかった。画家の最後の拠り所が、大きくゆったりと流れる隅田の川縁なのだったのかもしれない。
生活のために上京した少年は、商業美術工房の見習いとなり、その頃から独学で学んだ木版画制作を始めた。才能は認められたものの、昭和初年の大不況は画家の生活を脅かし、武家の出自だった彼は、他人の好意に甘んずることはなく、精神的にも追いつめられていった。その中で描かれ続けた東京の街への彼の片想いは、最後まで報われることはなかった。
隅田の対岸に住み、最も身近な友人であった版画家の小野忠重は、1978年開催された初めての回顧展『藤牧義夫遺作版画展』図録(かんらん舎)に寄せた巻頭文「回想の藤牧義夫」の中で、

おそらく、どす黒い隅田の水底に、藤牧の骨は横たわっていると、今も友人たちは信じている。

と無念を籠めて語っている。
戦前の最も華やかなイヴェントであった「エノケン一座を巡る版画展」での出品作『出を待つ』も、明るい舞台の光を浴びる女優の〈後ろ姿〉であったのも、彼自身の心象なのであろうか。

画家についてはこの「藤牧義夫 発掘!」で、十分に語られている。どうか、ご覧頂きたい。
偶然入手できた小さな図録によって呼び起こされた、僅かな感想では及びもつかぬ作品が参照することができる。