時とところのアラベスク 二

石造りであろうと、コンクリート造りであろうと、木と紙のイエで暮らしてきた日本人は、建て替えにまったく抵抗がなかったし、様式史を持たずにきた我々にとっては、古いものは不便なものでしかなかった。昔が見たければ、変色した一枚の写真があれば十分だった。
建築家がそれまでもってきた考え方を変えて、建物は消耗品ではないと考え出したのは、七十年代の半ば、雑誌『都市住宅』が年間テーマというかたちで「保存の経済学」を掲げた1974年だった。キャンペーンのモデルは海外だったけれども、建物のもつ、機能以外の要素を浮かび上がらせた功績は、小さくなかったはずなのだ。ただ、その思考法は建築家にのみ生まれたのであって、建築の持ち主たる企業にはまったく反映されることはなかった。以来、三十年を過ぎても、機能、経済性だけが重要であり続けた。いわば、人を収納する見栄えのする箱があればいいのだ。例として、『都市住宅』7405「特集 丸の内」を見てみた。
見開きで添付された丸の内ガイドマップに図示された建造物のいくつが現存しているだろうと、確認する。二十数件の歴史的建造物のうち残されているのは、公的建造物の東京駅と中央郵便局、民間では辛うじて、重文指定された明治生命館のみの体たらくなのである。死屍累々と言っていいだろう。大震災にも、戦災にも生き残った旧丸ビルの取り壊しから、あっという間に出来上がった〈新しい丸ビル〉の落成以来、新聞も読まずにきたこの七年、現役時代うろついていた仲通の状況も知ろうともせずにいた。丸の内北口丸善は行くくせにである。
そんな浦島状態のある夜、午前様の酔眼が信じられないものを見た。皇居前から馬場先門の通りを抜ける時に一瞬、煉瓦造りの亡霊と出会ったのである。いや、一瞬で通り過ぎたから、それさえも夢かもしれなかった。だから、地下鉄車中で見かけた告知で確認して、白昼再訪してみた。

丸ビル低層のファッションビル成功以来、三菱村仲通を銀座化しようと図る三菱地所の陰謀が、通りに面した外壁のお洒落化を進めていたのかもしれないが、ここまでやるとは思っていなかった。これは、罪滅ぼしだったのか。散々蹂躙してきた自分の財産を、やっと生かす気になったのだろうか。Web上でも賛否両論だが、やらないよりはやった方がいい。明治初年のビジネスビルが、現代に通用するはずがないなら、美術館だっていい。景観として、今は違和感があろうとも、一年もしないうちに周囲に溶け込むだろう。

勿論千代田ビルの跡が超高層(これさえも死語か)に変わっていった代償が、この一号館とその脇のパサージュ風のレイアウトになったのなら、今はなき、〈丸ビル〉の一階のゆったりとした空間が丸の内に戻ってきたと、そう思おう。