「誤謬の博物館」 公式図録? 『ガストン・ド・ラトゥール』

この本は、持っていたことはあるけれど、読んでいない本なのである。なのに、勢いで面白いといってしまった。まあ、滅法退屈な『享楽主義者メアリアス』よりはいいだろうぐらいなつもりだったが、もしやっぱり詰まらなかったらどうしようというわけで、この数日、先日入手できた新樹社版のペイター X 堀大司による、ひいき目に見ても晦渋な文体と正面から向きあってみた。
息の長い、緊張した構文。背筋をぴんと張った文体。くっきりした言葉遣いは、一瞬の気の弛みを許さない。この一ヶ月近く手元に置きながら、読み始めては本を手から離す日が続いていたのはそう言うわけだ。正面から対峙する、久し振りの読書体験である。
ルネサンス末期、西洋史上でも稀な愚行〈聖バルテルミーの虐殺〉を背景に、宗教改革の大波の中、得度した若い詩人僧ガストンは、世情の混乱から一歩身を引きながら、ボースの平原、シャルトルの大伽藍を手始めに、フランス各地を遍歴する。
冒頭、主人公ガストンの居宅から始まり、一族の歴史が語られる。ガストンの得度とルネサンス末期のフランス宗教抗争を背景に、如何なる波瀾万丈が訪れるのか、以後のストーリーを結構期待させる。さらに第二章、シャルトルの大聖堂の細密な描写は、ユイスマンス『大伽藍』ほどではないが、建築好きにちょっとしたプレゼントだった。
出家した主人公が友人達と連れだって各地を訪れ、詩人でもあるガストンの出会いを綴っていくらしいのだが、やっぱり、物語ではない。そこで語られるのはガストンを通じてのペイターの詩論であり、時代に即した芸術論が繰り広げられていく。
まず、彼らが訪なうのはロンサール、モンテーニュ、パリでの聖バルテルミーの虐殺、そして、事件の渦中から離れて、ガストンが説教を聞いて、影響を受けたジョルダノ・ブルーノである。少なくとも前の三件には主人公が訪れてそれぞれの人物と交流したり、事件に巻き込まれはするのだが、中絶した、最後の章に於けるブルーノとは、説教を聞いただけなのである。ブルーノについて語られる三十ページにガストンが登場するのは説教前の八ページに四回、後の四ページに二回。確かに、劇的な〈聖バルテルミーの虐殺〉前後のエピソードや、ブルーノ自体の評伝は素材自体が強烈だが、それ以外のロンサール、モンテーニュは、いわば、小説的構成を借りた人物論で、やはり、『文芸復興』の補遺であったかと思わせる。例えば、渡辺一夫の『戦国明暗二人妃』だとか清水純一『ルネサンスの偉大と頽廃』、ブラントームの『艶婦伝』などをちょっと読み返してみたくなる。いわば、素敵なルネサンス後期肖像画展なのである。
確かに、モンテーニュの章は引用ばかりで退屈だし、折角の大事件も主人公にとっては〈紅旗征戎吾が事に非ず〉にすぎない。ではあるけれども、作者の早世で、中絶したこの作、完成していれば(研究者による抄録がある)やはり、ペイターの臆病な唯美主義を顕した奇書として、『享楽主義者メアリアス』、もしくは『ドリアン・グレイの肖像』さえも超えられていたかと思う。末尾の、訳者による精細な「ペイターについて」で語られる、本作に寄せられた後進の文学者達による評価は、情け容赦がない。I.A.リチャーズなどはペイターの著作『文体論』に対して「誤謬の博物館」とさえ言い切っている。だが、それらを含んだ博大な素材を綾織りの如く駆使して、語り尽くした堀大司のペイターへの愛情は、随所に惜しみなく溢れている。やっぱりこの人はペイターが大好きだったのだろうなあ。多分、小説に面白さを求める人にはなんの意味も無いけれども、たまにはこんな本を読むのもいいかもしれない。