Old Jellyfish has No Bones

雀は百まで踊りを忘れないそうだが、水母は六十を過ぎても骨がない。
数十年前に書いた駄文を後生大事に抱えていた。今になってみれば、そんなものは寄せ集めた資料の抜き書きにすぎない。K氏にそれを指摘されても、為すすべもなく、呆然とする素に、叱責の嵐が吹きつける。
嵐の中を涙顔で、要旨を描き出しレジュメを作った。レジュメができれば、問題点の整理ができると思ったK氏だが、素の持って生まれた形質はそんなあまいものではなかった。字面では見えていても、論旨が伴わない。エピソードを入れて話を膨らませることはできるが、論点を整理して提示することができない。それをするには、素の内側に入って言いたいことを探る必要がある。矛盾点を指摘し、素から、あるはずの論旨を引きずり出す。無いはずの骨を組み上げ、散らばった要素を整理する作業は、終盤にいたってほとんど毎夜の儀式であった。
「よく、投げ出さなかったね」と声をかけられたが、叱責が非難でなく、底に澱んだ僅かな知識の欠片を水面に浮かび上がらせて、的確な指摘が、見えない形を見せてくれたことを思えば、自分の勝手で、浮き出たものを捨てることなどできはしない。一日延ばした締め切りにもほとんど徹夜の作業で追いついた。来週には出来上がってくる新刊『黒死館逍遙 第十号 ケルトルネサンス考』は、こうして出来上がった。
出てきたものは個人誌に過ぎないが、もしかすると、虫太郎の世界に迫ったことになるかもしれない今号は、胸を張って読者にお見せできる、はじめての出来栄えになっていると思う。