幻の山王

山王地区は、二度目の巡回。土地勘もでき、地形を見て、高い方を起点に、徐々に駅に向かうフォーメーションをとる。最初はとにかく歩くことに慣れるのが精一杯だったが、最近やっと心に余裕ができてきた。プライヴァシーすれすれのインタビューなので、一旦、先様の気持ちがほぐれると、溜まっていたものが吹き出してくることがある。
下町地区の木賃アパートにも過去は一杯詰まっているが、それは自分の境涯に近いのであんまり面白くない。ところが山の手の地区は、こんな作業でもなければ、門を明けることもできないお宅がほとんどである。例えば、あまりきれいではない古びたお宅を伺うと、外交官の夫を亡くし、二人の子供もアメリカに在住する方、整理中の玄関に置かれたものにカヴァーが懸かっているが、それが一九六一年のホワイトハウスの布製のカレンダーだったりする。
とか、表から見れば只のコンクリートの箱にしか見えない家が、中にはいると、昭和初期の貴重な建築遺産だった。壁こそ手入れが悪くて、表面の漆喰が落ちかけているが、壁と天井の境にはモールドが引かれ、それぞれ黒く塗られた扉には精巧な木組みがされている。贅沢ではないが、建築家の顔が見えるような見事な造りだった。一人住まいの奥さんの口調は、今時、ドラマでも聞くことのできない「……でございましょう。」が自然に出てくる。
もう一人のお年寄りは、お名前こそ日本人名だが、灰色の眸彫りの深い顔立ち、一瞬戸惑ったが訪問の趣旨を話すと了承して貰えた。暮らし向きを伺うと驚くような一生が飛び出してきた。生誕地は上海、戦争末期に海軍に徴用され、いわば外人部隊のような任務で戦闘に参加させられ、百五十人の部隊中生存者は五十人だったということだ。終戦後は内地に戻り、英語を生かしてGHQで働いていたそうだ。その後、外資系企業で飛ぶ鳥を落とす勢いだったのに、収入の六十%を税金にむしりとられ、豊かとはいえない現在のこの状況である。具合が悪ければ、ヘルパーも来るが、元気になろうと努力する老人の意志をくじくような制度は何事か。デニムの繋ぎの似合いそうな、細工仕事の材料に囲まれた、山小屋風のお宅に住む方からと一気にまくし立てられた。
時間さえ許せば、もっとお話しを続けたい魅力的な方だった。