fin de siecle アナトール・フランス風 『鳥料理レーヌ・ペドーク亭』1893朝倉季雄譯 白水社1938/1951

十九世紀後半のヨーロッパは、科学万能が一斉を風靡していた時代だったが、その功利主義一本槍に対する反発から、反動的な宗教思想回帰や不分明な深層心理への関心が、その世紀末にいたって起きてきた。その顕著な見本がユイスマンスであった。彼が1891に書いた『彼方』で、どっぷりと黒ミサとジル・ドレの悪魔崇拝というオカルティズムに浸かっているのは周知の通りである。彼は、この作品で取り上げたあるエピソードが原因で、当時の隠秘主義の団体から命を狙われたことさえあったらしい。勿論、ユイスマンスに対抗したわけではないだろうが、後に至っては社会主義に目を向ける、アナトール・フランスにさえそんな傾向の作品があった。錬金術がテーマになっているという『鳥料理レーヌ・ペドーク亭』である。
物語は、パリの裏店で育った利発な少年の思春期の性的な成長と、放蕩の果てに古学に長じた老学者の出会いに始まり、ふとしたことから少年の巻き起こした色恋沙汰に巻き込まれた老学者の死と、少年の帰宅に終わる。少年は培った知性を生かすために、親の職業を離れ、町内の書肆で働き始めて物語は終わる。
少年ジャックと、その教育者コワニャールの前に突然現れた年齢不明な貴族?が、この作品では狂言廻しで、パリ郊外に城を持ち、城内で錬金術の実験を続けているのだ。そのうえ、スペインから出奔してきた老ユダヤ人を庭園の片隅に住まわせ、ユダヤ古文献の解読に当たらせている。彼と孫娘の間には背徳的な関係もあるようだが、孫娘は少年ジャックと関係を持つ。
ジャックとコワニャールを雇い入れ、仲間に引き込もうと画策する際に彼の語る、錬金秘法の様々は、正確ではあるがほぼ戯画化されていて、結局ストーリーを動かす小道具に終わる。とはいえ、彼によって語られるデカルトの人形を始めとするエピソードの数々はアナトール・フランス錬金術観が出ていて楽しい。

物質界がもつと大きからうと、小さからうと、こんな形をしてゐやうと、あんな形をしてゐやうと、それはどうでもいいことぢやありませんか。物質界が知性と理性とを通してより眺めることが出来ないといふだけで、神様のお姿がそこに明らかに窺へるのです。同書190p

錬金術師の説得にも拘わらず、最後までカトリックの信仰を離さなかった老学者の死後、少年は彼の城を訪れるが、そこで眼にするのは錬金術の炉からの火で起きた火災に焼け落ちる、異教の城館とその火に巻かれて焼かれる錬金術師の最後の姿だったのである。この最後は、『薔薇の名前』で、図書室に火を放ち、その火で焼かれる老ホルヘ神父の姿を思い起こさせる。
放蕩の果て、勉学を重ねて悟りに至るがついには、いざこざに巻き込まれて非業の死を遂げる老学者には、ルネサンス錬金術師で医者でもあったパラケルススの影が見え、後に書肆を持つことになる鳥料理屋の小せがれには、作者本人の影が見える。彼らのユーモラスで魅力的な会話と、少年が出逢う恋愛劇のあれこれが、彼らを秘教に巻き込もうとする錬金術師の思惑と絡んで、この作品の本筋になっている。少年の煩悩のもとになっている(錬金術師によって、妖精に見立てられる)女性たちも現世的に魅力たっぷりで、実に色っぽい。この作品がオペラ化されているそうだが、多分作曲家Charles Levadéの創作欲を煽ったのは、この奔放な女性たちの魅力にあるのだろう。
古今の題材を自家薬籠中のものにして多彩な作品を残した彼であるから、どんな題材でもお手の物だったのだろう。題材としては、真面目に錬金術そのものと向き合い、主人公の一人に錬金術の古典籍(アレキサンドリアのゾシモス)の翻訳をさせたりはしているが、物語は錬金術の本質に拘わることなく進行し、当然だがユイスマンスの狂信はここにはない。また後に書かれた錬金術師の精神の徘徊を描いた、ユルスナールの『黒の過程』などとも一線を画す。