ゴールデン街で対談


もう四半世紀にもなった。今手元に一冊の小冊子がある。本文用紙そのままの表紙は、学術関係の同人誌のように活字の組だけで構成され、活字で囲まれたスペースに、まるで写真のような巻き貝の絵がポツンと置かれているという素っ気ないものだ。この薄さは、編集人の言によれば発行開始からすぐに許可の下りない定期刊行物の条件を満たすまでの、郵送料の軽減のためなのだという。「彷書月刊」という、いかにも古風な名付けのその雑誌は、当時住んでいた地区の、古書店のカウンターでそれ以降よく見かけることになる。
対談依頼の電話が勤務先にかかってきたのは、多分編集人田村氏直々だったのではないかと思う。教養文庫での作業も終わり、大分経っていたからまさかという思いが先に立ったが、松山さんのご指命だというので、取りあえず引き受けることになった。場所は新宿ゴールデン街、当時は取り壊されて再開発の噂が出ている頃だった。新宿は確かに美学校以来、入り浸ってきたところだが、根が引っ込み思案の素天堂だったから、精々が角筈あたりの裏通りで、まず、そんな怖いところに足を踏み込んだことはなかった。同じ意味で、つい最近まで、二丁目界隈にも近寄ったことはなかったのである。
勿論店の名前などは覚えているはずがないが、後になって色々勉強したところに寄ると、大昔、その辺はいわゆる私娼窟であり、一階で意気のあった二人がチョンの間と称するらしいが、二階の小部屋で用を足すのだと言うくらいは知っていた。そんな二階に上げられて、男二人が向きあって酒を飲むのだから、妖気も混ざってそれは悪酔いもする。しかも、そのお酒の代は、対談を設定した田村氏が持つのであるから、当時は珍しかった焼酎の味の凄まじさにいつしか、当夜の趣旨も忘れ、大放言大会に発展していった。二時間は喋り続けいていたと思う。しかし、そこで最も重要なテーマであった、虫太郎についてどれだけ語られたのかは翌日の朝でさえ、まったく記憶になかった。



酔余の暴走は、今に始まったわけではないのである。どれだけ編集人の田村氏は腹を立てながらテープ起こしをされたのかとおもう。まるで、対談の見本のような(しかも、これだけの内容でありながら、随所に綻びの見えるのは当日の凄まじさを物語っている)清書はまことにありがたいものであって、しかも数年後、虫太郎の特集を編まれた時などは、信じられないが原稿依頼さえ頂いたのである。田村氏が当方を如何にお考えかは判らないけれども、まこと、友人冥利に尽きるとは、このことだろう。

美学校在学当時から、そこは本好きの集まった集団だったが、その中でも群を抜く本好きであった彼が、古書肆を立ち上げてもう三十年を越えるだろうか。既成の古書店の重圧を跳ね返し、掘り起こした、新しい形の古書探しを定着させてきた彼の方向は、新世代の古書店に進むべき路を切り開いてきているのは、もう既にみなさんご承知の通りだ。
新雑誌の試行錯誤の足を引っ張ることしかできなかった、創刊二号を飾った対談の再録で当時の赤恥を曝しておくことにする。ところで、松山さんの発言を受けた、Y口クンの一丁前の発言の中で、ちょっと気になったのは「日本の風俗小説はリアリスティックだから」という発言。日本の〈風俗を書いた積もりの〉小説には、一片のリアルもなかったと思っている自分の発言とは思えない。それとも言い間違えだったのかな。