町歩きに意味はない…と思いたい

この間まで続けいていた作業は、目的があったから町歩きとは言わない。確かに、副産物としてのウォッチングはあったとしても、やっぱり仕事である。しかし世の中には、遊びとしての町歩きで、立派に公共放送を使い切った番組がある。
残念ながら、期間限定だったということで、今週の「六本木編」で終了した『ブラタモリ』がそれだった。名目上は地誌のお勉強をしているようなふりをしながら、普段入れない施設を、公共放送のコネを使って入りまくった各回は、きっと町歩き愛好家の垂涎のもとだったろうと思う。日本橋の銀行の地下、三田のイタリア大使館と蝦蟇の池、浅草の伝法院、これだけでも十分かもしれないが、もう一つ重要な要素がある。それは、行く先の知れない迷路感覚を愉しむ遊戯精神だ。
子供のころ、普段出入りする自分の街を出て、隣の町に入ってゆくワクワク感。見知らぬ路地に入り込み、犬に吠えられ、なわばりを荒らしたと、路の真ん中でくつろぐ猫に脅される。いつの間にか帰り道を失って顏青ざめるあの感覚が、何時もそこにはあった。高をくくっていた報いで始めの何話かを見逃していたけれども、たとえ半分でも、あのメインのタモリの真剣に遊ぶ眼差し(サングラスに隠れていたとしても)を共有できたのは、滅法楽しい経験なのであった。
ほじくり返した砂の中から出た貝殻を持ち帰る。調べてみたら、縄文時代そのままの貝殻だった。何が楽しいといってこんな素敵な遊びがあるだろうか。多分これからもどこかで、彼の遊び心に出逢うことがあるだろう。愉しみに待つことにしよう。
 一昨年見た伝法院の内庭