固有名詞の大海をたゆたう至福

書影さえ必要でないくらいレファレンスの定番、全五巻二千ページを優に超える大著『古代中世科学文化史』平田寛訳 岩波書店1951-1957刊(第五巻は1966年刊行 *現在注文中)を、部外者の斜め読みとは言え、二週間で四冊読破。揃いではないため四冊しかないが、奇妙な眩暈を感じる経験だった。本書のほとんどはラテン語アラビア語ヘブライ語のカナ表記でページが埋め尽くされている。例えばこんな調子だ。第三巻第四章 「第一三世紀後半の科学と知的進歩との概観 三翻訳者」から

このスペインの集團に、カタロニアの大學者であり當時の最大人物でもある二人の人物をつけ加えることができよう。ビリアヌエバのアルナルドとラモン・ルルとである。アルナルドは、ガレノス、アル=キンディ、クスタ・イブン・ルカ、イブン・シナ、アブ=ル=アラ・ズフル、アブ=ル=サルトの多數の論文をアラビア語から翻訳した。これらはすべて醫学書であった。クスタの論文「括ることについて」(De ligaturis)でさえ、眞意は呪術的であったがじっさいは當時の醫學文獻に属していた。注意すべきことは、以上はかれの活動のごく小さな付隨的な部分を示したにすぎないことである。ルルは、じっさいは翻訳者ではなかったが、生涯努力してアラビア研究を促進させたからここに擧げなければならない。かれ自身、なみはずれたアラビア語學者であった。かれが自著のいくつかをアラビア語で書いたという事實を目撃されたい!158p

翻訳を歓迎したもう一つの讀者階級は、常に學力の點で非常に劣っていた兵士やスポーツマンであった。たとえば、マンのジャンは、ウェゲティウスの「軍事大要」(Epitoma rei Militaris)をフランス語に翻訳した。クレモナのダニエレは、皇帝の私生兒エンチオのために、鷹狩に關するアラビア語ペルシャ語との諸論文をラテン語からフランス語に翻訳した。皇帝自身の論文も、この世紀の終わる以前にフランス語訳された。170p

実際にはこんなものではなく、アルファベット表記のアラビア語の書名とその魅力的な直訳題でギッシリ詰まったページさえあるが、著者のヨーロッパ文化圏から、アラブ文化圏、インドは言うに及ばず、同時期の支那、日本までを視野に入れた、偏見のない博識の中から選び出され、書き込まれたそれらの固有名詞は、当時の知的躍動が感じられて、退屈する隙さえ与えられない。
暗黒時代と呼ばれた中世にどれだけの、密やかだが大きな動きがあったかを究明する、科学史の全てのジャンルに及ぶ著者の姿勢は、もう一人の科学史家チャールズ・シンガーの名著「魔法から科学へ」山田坂仁訳 北隆館 1944刊とともに、後のオカルティズム研究にさえ、資料を提供することになる。高校時代の大事な参考書、シュールリアリズムの画家クルト・セリグマンの『魔法 −その歴史と正体』訳者は平田寛!平凡社世界教養全集20 1961刊の重要な種本でもあったと思われる。降って湧いた長い春休み、こんな時でもなかったら通読もできなかったろうし、長い『黒死館』の語彙との格闘があったから、ここに登場する無数の固有名詞の羅列にアレルギーを感じることもなく愉しむことができた。原著者の、大戦を挟んだ二十年の月日と、訳者の完訳までの十五年を噛みしめるには不足な、語彙探しがてらの半端な読解力しか持たない読者であるが、もうすぐ届くだろう第五巻を待ちながら、インターネットでの語彙の収集にならされた最近のレファレンスと比べて、なんだか長い競歩でも終えたような感じがして、ちょっと簡単な感想を書いてみた。