ロマンの死 ロマンの誕生 綺想宮殺人事件

森江春策は、作者の陰謀で、ミステリそのものと対峙させられてしまった。ミステリのからくりを自明のものと思い込んで、ゆったりと探偵とともに物語の世界に、紡ぎ出される衒学の海に漂う読者も、犯人?の策謀に巻き込まれ最後には、まさかの世界まで連れ去られてしまう。ここにあるのは、十九世紀ロマン派の星や菫に憧れて、造りあげようとした騎士道的な探偵小説の世界ではない。小栗虫太郎が築き上げようとした、あの世界は、当然ながら既にない。
十九世紀に始まったロマン派の流れは、ハイネの『精霊物語』、ネルヴァルの『幻視者たち』を始めとする作品の現すとおり、現状への不満を、もう一つの神秘の世界への憧れへ昇華しようと試みていた。その憧れからの流れが二十世紀の始まりと共に、隠された不正を暴く形でのミステリへと変貌をとげていくのだが、実質的な社会との関わりとしては、『幻視者たち』にもほの見える、現実的な革命思想の原点となって、社会改革へと形を変えていく流れともなっていった。それらの流れは二十世紀のなかで変動を遂げ、一部は醜く変貌してゆくことになる。彼らはその醜さを自覚することもなく、〈建前〉を振りかざしつつ、理想の名の下に害毒を撒き散らしてゆく。悲しいことに、二十一世紀はその害毒にまみれ、次の光もまだ見えてきていない。
黒死館殺人事件』の法水麟太郎は、自らのディレッタンティズムで、この日本に星や菫を植え込もうとして、風土的土壌の堅固さに敗れて、消えていった。消えることができて、彼は幸せだった。彼は自分の信奉する全てが、次の瞬間、醜く変貌するのを目撃しないで済んだのだ。
世紀を越えて探偵森江は、新しい形のディレッタンティズムで、ロマンの残党の怪物たちと対峙し、必死に闘わなければならなかった。十九世紀のハイネやユゴーが求めたロマン派の理想は変形し、肥大し、ナショナリズム帝国主義の怪物となって、今なお世界を覆い尽くしている。自ら、変形と肥大で醜い様を自覚できない彼らに向けて、森江は壮絶な戦いを挑んだ。ここでは、ディレッタンティズムダモクレスの剣となって、彼らに対する武器となった。
無自覚で傲慢なロマンの残党共を根絶やしにすることは、その無自覚さゆえに、絶望的に困難なのだ。彼らは理想を実現させたと思っており、世界を改良し続けていると思い込んでいるのである。悪いことをしたと思っていない連中は、鏡で自らの姿をみせられたとしても、そこで反映されているのは、自惚れ鏡でしかない。だからだろうが、決然とした姿勢は、探偵森江の対する敵の不定形で非・劇的なあやふやさに対して、何故か虚しい。自ら創り上げたホログラムの三次元映像に向かって斬りかかる、二十一世紀のドン・キホーテのように見えてしまうのだ。斬りつけても斬りつけても、また綴じる堕天使ルシファーの肩の傷のように、自分の偏見でしか自身を見ない、毒ガスのような怪物共と対峙したとき、森江春策は、ある種の哀しさを感じなかったろうか。彼らに罪状を突きつけながら、彼ら自身に最後の決着を委ね、彼らの元を去る時に感じたのは、それはもしかすると、自分の敵を切る刃で、自らの肩を斬ってしまったのに気づいた痛みと悲しみなのではないだろうか。
作者芦辺拓は、エンターテイメントと見せかけて、いつでも次を見据えて作業をしている作家だ。自ら殺した探偵小説の〈原型〉なのだ。次には新しい探偵小説を見せてくれるのが、その悲しみに対する作者の落とし前ではないか。楽しみだ。