三康図書館で久しぶりに宿題

素のアンテナでもお目にかけている私立図書館。大昔、まだ黒死館語彙蒐集の緒についたばかりの時に、何度か通ったことのあった素敵な図書館だ。その後、平日のみの開館ということもあって二十年近く、ご無沙汰であった。その時は、基本的な情報も押さえずにいったため、『新青年』のバックナンバーや、酒井潔の著作の閲覧でお茶を濁してきていた。当時としては、それが精一杯だった。
勿論当図書館の実力は、そんな生やさしいものではない。戦前の書籍の蒐集では群を抜いた蔵書量なのである。さらに魅力的なのは、ほとんどの資料が現物で参照できるという点にもある。知ってはいても平日に時間のとれない勤務の関係で疎遠になっていたのだが、やっと平日に時間のとれる勤務が実現した。
先々月の空き時間に何日か通って索引と終日首っ引きで、関係書をリストアップする作業をしていたのだが、取りあえず、先日の日記で出逢った口絵にお目にかかりたくて、パルミジャニーノ・パニックの冷めやらぬ中、芝増上寺裏へ出掛けてきた。寛永寺裏なら算哲の旧宅なのだが。目標は、その口絵が掲載されている『世界神話伝説大系 愛蘭篇』とファウスト・エピソードが登場する『獨逸篇』である。
まず閲覧室へ入って入館料百円を払い、リストの中から、『大系』三冊を貸出票に記入する。某国立図書館のように、数十分も待たされることはない。一瞬で目的の本は用意される。目的の筈だった『愛蘭篇』は後回し、Voeksbuchの元である『獨逸篇』に思わず手が出る。
673p、ファウスト伝説の後註を確認する。文中、あの時は気づかなかった語彙に、今更ながら気づく。サクソグラマチクスが出てくる。マーローの『ファウスト博士の悲史』も登場する。「ファウストは中世的魔術的精神の具象化」等という言葉も出てくる。最後の一行に、『自分が上に掲げたファウスト傳説は、そのもっとも古い形の一つであって、有名なVoeksbuchから採ったものである。」という言葉が出てくる。そればかりではない。巻頭に置かれた編者、松村武雄の解題には、中世ドイツにおける傳説の重要な要素として、悪魔、呪術との関連が取り上げられているのだ。列挙された書名、著者名には黒死館にそのまま書名が引用されている〈ヒルド氏〉の『悪魔に関する研究』(Hild, Etude sur les Demons)があり、〈ロスコフ氏〉の『悪魔史』(Roskoff, Geschichte des Teufels)も登場するのである。さらに巻頭では十点の参考文献が、最近全訳が刊行された〈Baring-Gould, Curious Myths of the Middle Ages〉

ヨーロッパをさすらう異形の物語〈上〉―中世の幻想・神話・伝説

ヨーロッパをさすらう異形の物語〈上〉―中世の幻想・神話・伝説

を筆頭として種本としてあげられているのだが、そのリストの最後にVolksbuchも登場している。ここでは綴りは正確だし、編者の所感として最後に書かれた「Volksbuchは、ファウストに関する傳説をしるうえに、缺くべからざる重要な書物であるが、さうざらにあるものではない。自分の手許にもなかった。」も印象的だ。それなのにわざわざ、後註の誤植部分を使い、同書中に登場した他の本の著者ロスコフと組み合わせ、

ファウスト伝説の原本と称されている SML344

と仰々しく自註して、架空の書物『Voeks-Buchの研究デイ・スツデイ・フォン・フェックス・ブッフ』を創り上げている事が確認できた。他にもいくつか、新しい発見があったが、それについては後日、もう少し纏まった形でお目にかけたい。
こうして、この虫太郎の『黒死館』に関する重要な参照文献として、『世界神話伝説大系 獨逸篇』全編を確認するワクワクする作業が、たった数時間で終了した。ところで、本来の目的であった『愛蘭篇』とT.W.Rollestonの著作との関係だが、編者八住利雄の姿勢の違いから、参照文献のリストもなく、散見する原著の中に〈Myths and Legends of the Celtic Race〉が登場することはなかった。口絵だけが使われたわけではないと思うが全編再確認の末、この本からは具体的な『黒死館』における引用の対象は発見されなかった。それにしても、たった一日の作業でこれだけの成果というのは、実に貴重なものだ。