クセジュと比較とは!

ここにも書いたけれども、白水社の「文庫クセジュ」は、何かを知りたいと思った時の素天堂にとって、高校時代からの大切なパートナー(偉そうに)だった。そこに手際よく詰め込まれた全ての事象の書き手は、いつでも、素天堂の水先案内をしてくれる大先達の集まりだった。セルジュ・ユタン、レジーヌ・ペルヌー、ロ・デュカ(ズカ)そして、『幻想の美学』のルイ・ヴァックスE.T.C.今自分の手許には古めのものが三十冊ほどしかないが、それ以降の充実ぶりは、自分にとって四倍、五倍の蔵書になってもおかしくないだけの水準を保ち続けている。〈クセジュ〉でなければ得られない情報が詰まっているのだ。
puhipuhi氏がその珠玉の叢書を、何時も怪しいひけらかしの塊『逍遙新刊』と、今回のコミケ収穫の一つとして並べて対比してくださっているのである。もちろん、大部分は修辞として割り引いて考える必要があるにしても、何より、うれしく名誉なことであります。なお、一つだけ言葉を挟ませて頂くと、〈ディグスビイ×算哲〉説については、素天堂自身の初期からの持論でありまして、けっして、〈プロデューサーの強権発動〉ではございません。ただ、それをまとめるに際しては、プロデューサーの渾身の整理能力を必要としていたのは事実です。
それにしても、身に余る評を頂きましてありがとうございます。本来なら貴blogのコメント欄にお邪魔するべきだったと思いますが、長文になってしまいましたので小日記に掲載させて頂きました。何より〈プロデューサー〉に、そのお言葉をそのまま捧げたいと思っております。