『シューマンの指』奥泉光

『『吾輩は猫である』殺人事件』以来、時間、空間の拡がりの方に進んでいた奥泉光の世界が、久しぶりに意識の中の世界に戻ってきた。

シューマンの指 (100周年書き下ろし)

シューマンの指 (100周年書き下ろし)

〈ないはずの指〉が奏でるピアノという友人の手紙から発生する冒頭の奇妙な小さな謎。そこから、いかにも若書き風な音楽論が、語り手の回顧談らしきものと絡みあって繰り広げられる。真摯というより、若干神経症的な語り手の風貌と下意識が、文章のあちこちにある小さな切れ目から、澱んだ沼の底から上がる気泡のように上がってくる。読み進むに連れてその澱みが作品を薄氷のように覆ってきた瞬間、遂に破局が訪れる。
ピンと張った音楽への意識が、所謂クラシックに興味のない読者にも伝染するかのように、あり得ない純粋な音楽の世界に読者を引き込む。奇矯、異端とも思える、選ばれたものだけが持つことを許された音楽観が心地よく、ほとんどが単調な回顧譚で埋められたこの作品を飽きさせることがない。
奥泉と音楽といえば少し前の『鳥類学者のファンタジア』が思い起こされるが、あのポップで楽しいジャズミュージシャンのタイムトラベルを引き合いに出すのがはばかれるほど風合いが異なる。印象だが、最初期の『その言葉を』を思い出させるものがある。
この作品の事件については、これ自体が修辞トリックといえるほど、全体が絡みあっていて、素天堂如きが分析などとは全く不可能である。ゆっくりともう一度読み返してみれば、何かいうことも出てくるかも知れないが取りあえずは感想まで。
この作品をCD付きで売ればと言う感想をみたが、よい作品ほど場面喚起力があるから、読んでいて絵が浮かんでくる。重なり合ったピアノ演奏と若干詩的でない殺人場面の交錯は、この作品のヤマだが、昨晩の『相棒season9』のオープニングを見ていて、この作品の映像化が見てみたくなった。白面の貴公子の弾く超絶のピアノ曲と、暗い水面に揺らめく、漣に囲まれた女生徒の肢体(これは変換ミスではありません)とのオーヴァーラップを。