ないものを探す Iさんへのコメントに代えて

Iさんから再三のご教示を頂いた。長くなりそうなのでお礼のコメントに代えて日記で書かせて頂くことにした。
確かに最近のインターネットでの資料の公開にはめざましいものがあって、半端な公立図書館の蔵書など問題にならないくらいになってきた。そのうえ、全文検索、画像検索という鋭利なメスさえ備わっているから、あるものを探すことは、数年(数十年ではない)前に比べて検索作業という外科手術は格段の進歩を遂げている。ちょっと前なら、素天堂の貧弱な蔵書から何日もかけて関連図版を用意したものだが、現在では二、三時間もあれば大量の貴重な画像が入手できる時代である。
 例えばこれも。
Gottfried von Straßburgという、中世ドイツの詩人がいる。名前だけは文学史に登場しはするものの、素天堂の手に出来たものは、岩波文庫のお手本「レクラム文庫」と奇跡的に存在する『トリスタンとイゾルデ』の邦訳だけだった。平凡社の『世界名詩集大成』という偉業であっても、ドイツ最古の詩人はやっぱりゲーテなのである。中世詩人の断片などは無視されてしまっている。だからこそドイツ語も判らないままレクラムの細かい活字を追い、たった一つの単語を求めて、分厚い邦訳本を一語一語辿ったあの作業からすれば、ネットで原文を参照できる(つまり資料を探すための徒労感を切り捨てることが出来るのだから)というのは夢のような状況なのだ。
あるものを探すことは偶然に頼ることも出来る、それが現在まで続く素天堂の作業の実態だった。これからはないものを無いと証明するための、手許に(架空であっても)万巻の書を置く作業が可能になりつつある、現今の状況は確かにありがたい。しかし、それは両刃の剣でもあって、やっぱり器械としての限界を認識しつつ享受しなければならない。
テキストという観点から見ても、今号の付録に付けた「ベアリング・グールド」の著作は、二冊とも原文であればインターネットに公開されている。しかし、邦訳の瑕疵を修正するべくネットデータを参照してみたら、そっちに誤植が見つかったこともある。見比べてどちらを採るかは編集者の責任なのだ。誤植はスキャンとOCRソフトの限界、というよりやむを得ない校正の見落としだろう。どこまで行っても果てしのない校正の限界なのである。素天堂が根本資料としている「創元推理文庫版」でさえ誤植、校正ミスは散見する。356ページ注(一)纈(かのこ)草の科名が〈敗医科〉となっているのは、新潮社版の〈敗醤科〉の誤植〈敗醫科〉を踏襲してさらに新字に変換したためこの奇妙な科名となっているのだ。教養文庫版172ページでは、特に校異の指摘はないが〈敗醤科〉に修正されている。
こういう校異の発見は、やっぱり紙と眼の作業だからこそ可能なのであり、電子的な自動処理では、データの整合性は機械任せでなければならず、誤植などが発生した場合の、曖昧検索にはまだ限界があるとおもう。人間の眼(脳)の許容範囲の広大さと寛容さに、PCソフトは追いついてはいないのである。
結局、虫太郎がどんな書物を手にし、そこから膨らませた幻想を『黒死館』に書き込んだかが問題なのであって、それが最終的には虫太郎の構想力であり、『黒死館』が今でも多数の、IさんやPさん、素天堂などを魅きつけている、作品の魔力なのであろう。