六十九年のノートから 思い出したくないこと 忘れたくないこと

花村清枝のノートから
マウンテンゴリラの眼を解剖するまえに、シリウスにはおまるがないのだと云うことを知らねばならない
       ☆
苦しげなとりの声が
       ☆
細くくびれた胴体、ニカワでぬりこめられた唇
NII
ひとつの富をおまえは得た。
            See the Angel,
                 angle worm.

だから何だというような、そんなこんなを書き散らしつつ、高校終了後、どこへ行くかも何をするのかもつかめないまま、働きだしたのが本の配達業、住み込みで大田区内の事業所に配属された。仕事は単調で城南地区の家庭に直接販売の本や雑誌を配達する業務で、合間合間にする大田区内や川崎市内の古本屋廻りが楽しみだった。その街に暮らし初めて直ぐに素天堂は、居住地の駅前の本屋に出入りを始めた。昼間は上品なおばあさんが店番をしていたが、夕方から代わった若い店員と言葉を交わす様になった。
切っ掛けは『南北』という文芸誌だった。それまで僅かな情報しかなかった稲垣足穂の作品が掲載されていて、飛びつく様に買い込み、更にバックナンバーを全冊注文したからだった。『波』や『ちくま』『図書』などの柱広告を見ながら、その月買う本を決めていたから、素天堂の趣味、傾向もつかめてきたのだと思う。だから『血と薔薇』発刊のチラシも貰ったし、毎号の予約もした。そんなある日に、若い店員が奇妙な羊の図案のパンフレットを見せてきた。
それが、美学校との出会いだった。創立の言葉も刺激的だったが、履修科目も目を引いた。木口木版、透視画、細密画等今までの絵画教育では無視されていたジャンルだった。高校時代からベルメールブリューゲルに惹かれていたから、一も二もなく応募してみる気になった。しかも、澁澤さん、種村さんを筆頭に講義陣のラインナップも超越的に凄かった。
今となってはどんな手続きで聴講生になったのかも忘れたが、とにかく六九年四月、四谷若葉町文化放送の近所だったコンクリートのビルの二階へ通うことになった。残念なことに、木口木版も透視画も募集人員に満たず、第三志望のペン画教場が所属だった。講師は、後に角川書店の大キャンペーンで甦った『少年ケニヤ』の山川惣司先生だった。
西欧風の微細ペン画に興味を持っていた素天堂にとっては、活劇画の出身だった山川先生の講義は、生意気にも「ちょっと違う」ものだったので、本来の教程以外の特別講義に精を出すことが多かった。殆どの講師の形は一回限りだったが、「マニエリスムと現代」の種村さん、「シュールレアリスムの絵画」の巖谷國士さん「古代インドのエロチック詩」の松山さんなどは通年だった。他にも「レオナルド講義」の裾分さんや「肉体論」の唐十郎さんも複数回講義された。
その殆どは記憶の彼方だったが、「マニエリスム」や「シュールレアリスム」「レオナルド」は今でも自分の根幹を構成している。
そんな日々のノートが出てきた。最初の日付は四月四日。とにかく噴出するカタカナ語の洪水は、首まで使ってまだ余るくらいだった。午前の二時間はアッという間に消えていった。
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5/23 同日2p,3p