あの時に

十年ぶりに、積ん読の呪縛を解き放ち、山田正紀の大作『ミステリ・オペラ』を読了し、既に評価の高い同作の感想をあれこれ考えていた矢先のことだった。
三月十一日十五時四十七分。素天堂はある都心の駅のホームにいた。既に作業は終り、ホームの外れで片づけ始めていたが、大きな軋り音とともに壁や床が大きくゆっくりと歪み、見通せる全ての空間が捻れて見えた。一瞬何がおきたか解らないまま、まばらに電車を待つ乗客たちと、揺れの治まったホームで立ちつくしていた。変事を知らせる駅務員のアナウンスが構内に響いた。「震度五強」の揺れの告知と安全確認のための運行停止の情報だった。K氏に連絡を取ろうにも数時間の間、携帯電話は不通のままであった。
以下は、大震災中心部の被災者の方々には及びもないが、首都圏の一般人の一人が巻き込まれたドサクサの一記録である。
職員から地下を退出するように促され、作業所から一旦、事務所に帰ることになったが、乗って帰るべき電車が止まって足がない。もうその頃地上は人で溢れ、タクシーを捕まえるどころではなかった。歩き始めたところで、先輩の女性が、駅出入りの電気業者と話をつけて三田まで車で送ってもらえることになったのは幸いだった。途中は大混雑だったが、一時間近くかけて三田駅近くで降ろしてもらい、事務所に入ったら自分たちが最後だったようで、すぐに各自自分の判断で帰宅するという本部の指示を受けて解散した。何時も通りと高をくくって、一時間ほど附近の飲み屋で時間を潰したものの、運行は復帰せず結局六人でいけるところまで歩くことにした。都営バスはどうやら動いているようなので、一番近い築地のバス停から出ている錦糸町行きを狙った。道順を掌握しているのが素天堂だけだったので、道案内となって、品川方面に流れている人の流れに逆らいながら、新橋方面に向かう。
その時はまさか誰も夜通し歩かされるようになるとは思っていなかったろう。途中「ドンキホーテ」の店頭から、自転車が消えているのに驚いたが、何それどころではなかった。やっとついた築地だったが当てにしていたバスは、道路閉鎖のために運行していないらしい。取りあえず、城東・千葉方面のメンバーは、動き始めたらしい銀座線の方へ移動するというので、本願寺前で別れ、一人、新大橋地区を目指すことになった。明石町聖路加病院から鉄砲洲を抜け、永代橋を通って斜めに清澄白河に出ると、動き始めた半蔵門線に乗った。一駅だけだが最寄りの駅に自転車を置いてきたのを思い出したのである。お陰で、十時過ぎには家に辿りつくことが出来た。そんな大混乱だったが、帰って家の扉を開けて驚いた。
二階の書棚の上に並べていた、箱装の本が階段から下まで落ち、一階の部屋では横積みの本が全て崩れていた。イヤな予感とともに二階に上がると、自室の一方の壁を埋めていた中世史関係の資料本が雪崩落ち、床にあった三段ボックスを二本、見事に砕いていた。不幸中の幸いだったが、そこに置かれたプリンタやスキャナーは何とか壊れずに済んでいた。もしその瞬間、在宅でPC作業などしていたら、頭か肩でもぶつけていたかもしれない。まあ、落っこちた本には可哀想だったが、不幸中の幸いであった。大分派手な音がしたらしく、翌日隣家の方から「大丈夫でしたか」と聞かれた。

取りあえず寝場所を確保した頃には、江戸川の向こうから歩いてきた、K氏が帰宅した。やっとつけたTVのモニタから現れた映像は、そんな生温い自分たちを打ちのめすに充分な衝撃だった。気仙沼の町を襲ってなめつくした津波にはさらに火が拡がり、なぎ倒した町を火災に巻き込んでいる。結局二時過ぎまでTVに釘付けであった。
翌朝早めに家を出て、動き始めた地下鉄で出勤したが、未だ停止していた路線から出社する従業員は数名出社できなかった。現場で味わった、当日の首都圏鉄道関係の混乱はそんな生やさしいものではなかったが、ダイヤの編成はその数日後なんとか回復した。原発事故等による、首都圏なりの大小様々なトラブルは数多く続いているのだが、取りあえず数日で何割かの平穏に復しつつある。
しばらくはその影響による具体的な肉体疲労もあって、日記を書く余力もなかったが、書棚もK氏の尽力で新しいものに変わって、室内も歩けるようなった。凡庸な脳髄のなかで『ミステリ・オペラ』の感想もあの大きな揺れと空間の歪みに飲み込まれてしまった。魅力的な、『魔笛』と小城魚太郎、そして「検閲図書館」という稀有の存在も、改めて読み返して敬意を表することにしよう。