中世、中世、中世!


やっとの事で、一通り、建築関係に眼を通し終わったと思ったら、今度はお説教が目につきだした。説教といっても、頑固親父の倅に対するようなものではない。教会に行かれた方ならご承知のおミサの後の神父さんや牧師さんのお話しのことだ。一般信徒に生活を改めるよう促し、最後の審判のときにはみんなで天国にいけるようにする、あの、ありがたいお話しですな。
ありがたいとはいっても人の常、やっぱり退屈よりは楽しい方がいいに決まってる。若い娘などは、話の見えないヨボヨボのじいさん司祭よりは、若くてハンサムな話し上手な平神父の方がいいだろう。そこで、重宝されるのが、例話と呼ばれるタネ本である。『逍遙十二号』49p でとりあげた「ハイステルバッハのカエサリウス」が集めた、すべて実話だという『奇跡に関する対話Dialogus Miraculorum』は、その筆頭にあげられる中世から残る一冊。いってみれば、怪談実話・西洋中世編なのである。

十二号で取り上げたときには、何の形もなかったカエサリウスだが、そのうちヘルマン・ヘッセが編纂、翻訳した『ヘッセの中世説話集』1994を入手、そこには二十四話が再録されているけれど、あまりにも数が少ない。まあ、語る糸口のつかめぬまま過ぎたのだが、先日息抜きにジャック・ル・ゴフのカラー図版たっぷりの快著『[絵解き]ヨーロッパ中世の夢イマジネールHeros Merveilles du Moyen Age』原書房2007をチラ見していたら、「アーサー」の項目で、カエサリウスと再会した。『奇跡とは』天使館1999と題されたその本は、何と永野藤夫訳であった。若かりし永野の『獨逸中世宗教劇概説』中央出版社1950については、ここで触れたことがある。
永野はその業績のほとんどが、中世民衆に注目した研究であったが、最晩年は、中世説話の重要な基本文献と取り組んでいたようだ。それが、『ローマ人物語Gesta Romanorum』東峰書房1996の全訳であり、カエサリウスの百を超えるエピソードの編訳なのであった。
検索してみると、時々行っている神保町のお店に在庫があるらしい。取りあえず連絡して、買って見た。『奇跡とは』は、ハードカヴァーとは言え新書版の小さなもので、取りあえず眼を通そうと思ったが、そのあまりの簡潔な面白さで、その日のうちに読み切ってしまった。
短いものは半ページに及ばず、長いものでも三ページ弱というそのエピソードたちは、本当に生き生きと彼らの人生と、そこに根ざす信仰を語っているではないか。しかも押さえた筆致でありながら、ときにはユーモラスに、ときにはおどろおどろしく登場する人々が語りかけてくるので、途中で止められなくしまった。これが後々受け継がれ、お説教のネタ本として大きな影響を持ち続けたのも当然であろう。ここで、ある修道会士の出逢った幽霊の話を紹介する。115-117p
ページは三ページにわたるが実際は一ページと三行の短い話。
彼は夜明け前の暗がりで、鼻から火と煙を吐く人物と出会った。勿論怖かったけれど、修道士として勇気をふるって怪人に向かうと、この間死んだばかりの知人だった。羊の皮を何枚も着込んで、肩には灰が厚く積もっている。その恰好に驚いて、どこから来たのか問いただすと、「地獄で生前犯した罪の罰を受けている」と返答があった。生前、近隣の未亡人から羊の皮を何枚も奪ったり、隣の畑をごまかして盗んでいた。それが今、みんな身体にのしかかって、暑くて重くて大変なのだ。
「息子たちが、それを返してくれれば、楽になれる」というので、その貴族の言葉を修道士が伝えたが、息子たちは「諦めて盗ったものを返すより、親父がそのまま地獄で苦しんだ方がいい」とけんもほろろだった。
最後に、チャン、チャン。とつけたくなる絶妙のコントになっているが、これはあくまで実話なのである。百四十ページそこそこの小冊子だが、ここには、中世の人々のちょっと怖いが素敵な実態が語られているのだ。