今日こそ、その日に

先日の曝しにもかかわらず、またもや一文節に同単語三連発の素天堂です。(勿論修正済み)やっとの思いでひねり出した入力原稿を、数十倍の時間をかけて、項目の羅列に等しい支離滅裂の文脈から、論旨を探り、構成上何が足りないか指摘する。もしくは言いたいのはこういうことではないかという、言い換えまで添える。というまさに狂気の校正を経て、やっと責了がでました。果たしてこういうことしかできないものが、同じ作業を続けて行かれるのかという基本問題に何度もぶつかりながら、ここまで来られたのは、本当にK師あってのぼんくら生徒でありました。知識だけを持っているのは、京浜東北線に乗って通学する子が、山手線の全駅を暗記しているのと同じで、何の役にも立たないと言うことを痛感させられた三ヶ月でした。この間のK氏の苦闘を眼の辺りにしたとき、やっぱり限界はあるものだと思いました。
久しぶりに覗いた高野さんの日記に、ずきんと来たものがありました。海外の作品を語るうえで、翻訳と原著を渉猟しながら、翻訳と原著の落差に目をやって感じた違いの自覚がなくてはというようなひとことでした。自分のように、翻訳文化を享受しつくしているものが言う言葉ではないのかもしれませんが、自戒を込めて実感するのは〈翻訳さえ読んでいれば事足りる〉を前提に、自論を組み立てるのはやっぱり安直なのではないかと思うのです。
文脈として取り上げ方が的確かどうか不安ですが、(実際はどうかリンクをご覧下さい)自分が次の行動を考えた際に感じていたことが、目の前に飛び込んできたような衝撃でした。『黒死館逍遙』本編十二冊、別巻二冊。素人芝居、幕の引き時でしょうか。