到達目標はユイスマンスの『大伽藍』だったはず

建築幻想を現代に繋ぐ重要な作品として、まず『大伽藍』をあげるというとについてはまず異論はないだろう。だから、それを最終目標に、基礎となる『旧約聖書』の建築に関する項目を列挙して、注釈代わりにまずしようと考えた。それから、『大伽藍』の舞台となる教会建築の発生というわけで、中世史について簡単にまとめようと、今思えば、怖ろしいことを企んだのである。幸い、入院というありがたい時間ができて、まず『旧約聖書』を通読して、ある程度の基礎をつけておこうと考えた。中世史なら元々好きだから、資料なら手元にあるくらいに考えていた。
これが素人の浅はかさだった。『旧約聖書』は意に反して面白い文献であり、書き始めたら旧約聖書の成り立ちと、そこに登場する建築は簡単に略述などできるはずもなく、単なる項目の羅列に終始した始末。中世も気取って書き始めたが、単なる年表の書き換えで、ちっとも食欲をそそってもらえない。そこで、冬コミはタイムアップ。
無味乾燥な内容を指摘されて、なにか肉付けのエピソードを付け加えようとヴィクトル・ユゴーに手を出した。『ノートルダム・ド・パリ』なら、一度は自分も目を通しているし、内容も一般に知られているから良い見本になるだろうくらいの気持ちである。ところがどっこい、ユゴーのこの作品は、彼自身の建築論でもあり、中世史の重大な見直しをさせた作品だった。知っているつもりの再話では、まるで省略されている部分だったのである。精読を余儀なくされ、嵌り込んでいくが原稿は遅れに遅れる。ユゴーの助けを借りて、やっと旧稿に手が入りだしたのが四月下旬。文フリもアウト。やっと本腰を入れてからは前回の日記の通り。
ユイスマンスの作品も『ノートルダム・ド・パリ』なかりせば、ということで、今回の別巻は『ノートルダムのせむし男』一色となってしまった。建築幻想を語るうえで欠かせない旧約の世界の探訪と、中世の流れを追うことは、つらくもあったが愉しい半年だった。その作業を終わらせて、愉しい思い出にしてくれたK氏の尽力に改めて頭を下げなければならない。K氏なければこの号は永遠に成らなかったのだから。
今号は、スペースと時間の関係であとがきを入れることができなかった。いわば、あとがきの先出しである。
皆様とのお目見えは八月十日、東ヤ39a 夏のコミケまであと十日である。