富岡センチメンタルジャーニー(K談)

いまから50年も昔のはなし。
小学生の素天堂は、暮らしていた川崎・溝の口から夏冬の休みになると、玉次郎じいちゃんとスエばあちゃんの住む群馬富岡に行っていたそうな。もうその二階建の大きな集合住宅も跡形もなくなっているけれど、50年前にタイムスリップすべく、僕たちは富岡に日帰り旅行に出かけた。
池袋から8:20発小諸行きの高速バスに乗り、いざ出陣。途中休憩に入った中里ICでお土産コーナーに吸い込まれ、集合時刻ぎりぎりになったのは、素だけであったが、それもご愛嬌。連休の中休みと事故渋滞に巻き込まれ一時間遅れの11:30に富岡IC下バス停で降ろされた我々は、そこからまず鏑川に向かって北東に進み始めた。

休みになると毎年訪れるので、地元の子供たちと仲良くなって、よくこの鏑川にも川遊びに来ていたそうだ。

申し遅れましたが、今回の旅の同行者Kです。右手のタヌキな尻尾の人。写真撮影も担当。
橋を渡ると富岡市街、まず左手の大きな建物は一瞬高校かと間違えたが実はホテル。ここから上州富岡駅までは徒歩30分弱でしょうか。人気のないバス停に下されたものの、土地勘あるから大丈夫という言葉を信じてついてゆく。まあ、実際にはすぐに道路標識で市街の方向分ったのですが。

河原に白い鳥が飛んでいた。まさかと思って望遠で撮影すると、鶴。野生の鶴を見たのは初めて。幸先良し。

橋から緩やかな上り坂をゆくと、富岡東高校が左手に出てきて、ようやく手持ちのパンフレット(二年前から温存していたJRの富岡マップ)の範囲に入った模様。この辺りに、サーカスがやってきて、おじいちゃんの煙草盆から小銭を盗み出し、こっそり観に行って叱られたとか。
人の生活の匂いがし始めて、最初に入ったのがお土産に買いたかった、かりんと饅頭のお店扇屋さん。他のお菓子も買いたかったけど、最初からとばさないように自粛。裏手に回ると、煉瓦造りの可愛い煙突がみえる。
そろそろじいちゃん家があった区画、旧宮本町に入ります。

おそらく素少年も何度も前を通過したであろう、じいちゃん家裏手に残る古いお宅。

現在は宮本町まちなか交流館になってお土産屋さんになっている場所。この駐車場に素が泊まっていた二階建て巨大アパートがあったとか。
交流館の方に話をうかがうと、やはり地元の方。すぐ近所にお住まいで、色々御存知のよう。もちろん、その集合住宅も近くのお風呂屋さんも歯医者さんも、みんな覚えていらっしゃる。勇気を出して訊ねた素は、いきなり話が通じる相手に出会えて、既に興奮気味。もう少しと思ったが、他のお客さんも来たので、ニコニコ退散。

素の記憶に残るおそらく質屋さんの蔵。交流館の駐車場の角に残されていました。質屋さんは、お金持ちだったので映写機が自宅にあり、素も上映会を覗かせてもらったとか。

交流館の斜め前、通りを挿んでシャッターにみえる材木屋さんの名前。
おじいちゃん家の大家さんは質屋さんだと思っていたのだが、実はこちらが、地主さんだったと判明。この後街中には、茂木の看板がたくさん目に付いて、地元の名家だとうなづかされました。

左手がアパートのあった大きな区画。
まっすぐ正面にお風呂屋さんがあって、通っていた。昼食を食べたラーメン屋のおばあちゃんの話では、戦後すぐの水不足の折にも、ここのお風呂屋さんは水がたっぷりで、とても綺麗な銭湯だったとか。
右手奥には歯医者さんがあったらしい。

ここもすぐそばの道。
おばあちゃんと一緒に行商に行くためだとか、遊びにいくためだとか色々通っただろうな。

宮本町交流館から北に少し。
子供の足ではとても遠く感じたというけど、ほんとにすぐの場所にある、ラーメン屋の飯島屋さん。
通りの左手にある諏訪大社に街頭テレビがやってきて、みんなで観に行くのだけど、民謡番組なんかつまんないので、素少年がぐずると、ばあちゃんにここへ連れてきてもらったとか。手前には洋食屋さんがあるけど、とんかつなんて絶対子供の頃は食べられなかった。そもそも外食なんて全然しなかった。それは僕の時代(昭和40-50年代)も同じです。
二人でチャーシューメンと、ネギラーメンを注文。暑さではふはふ、ネギラーメンは辛いのでもっとはふはふしながら、満腹に。帰り際、再び昔話を尋ねてみる。昭和九年生れのおばあちゃんも、さすがに戦前に玉次郎じいちゃんがやっていた料亭のことは覚えていないということだった。どうやらみなさん、記憶にある山口屋というのは、氷屋さんみたい。じいちゃんは召集された時に店を畳んでいったというのだから、そりゃなかなか憶えている人見つけるのは難しい。
玉次郎じいちゃんは、「山に玉」の焼印を押した下駄を履いていたのだそう。名前ともども、かわいい話。

記憶にはないけど、木造の洒落た写真館。飯島屋さんの角から、そのまま駅に向うとすぐみえる。ここだけでなく、まだ街には写真館、写真スタジオがたくさん残っていた。素によれば、製糸場で働く年若い工女たちが折につけ実家に自分の写真をおくっていたのではないかと。

地元の友達が通っていた富岡小学校。当時の校舎は木造だった。高学年になると、今まで一人で預けられていた素と一緒に妹もやってくるようになった。校庭にあったブランコで二人で遊んでいて、妹の歯を折った、その遊具の位置も変わっているとのこと。

小学校の敷地内にある富岡市講堂。裏手にまわって覗きこんでます。正面からみるよりずっと奥行のある、木造の破風の美しい建物だね。正面玄関で、70歳前後の女性三人にまたも声を掛ける。息子さんもこの小学校に通っていたそうだ。ブランコに位置が記憶どおりだったことを確認。言葉の端々に、地元の人ならではの地名や呼称が飛び出してきて、素はとても懐かしそう。

一度、上信電鉄上州富岡駅まで出てみました。ここにも人気がない。すぐ向かいに煉瓦倉庫発見。富岡倉庫と地図にはある。

正面に回ってびっくり。倉庫のほかに、木造の大きな二階屋も保存されている。ここは繭の乾燥所だったそう。中に入ってみると地産の野菜や加工食品などが綺麗に陳列販売されていた。

往時使われていた二階につながるベルトコンベア式機械。綺麗に保存されている部分と、廃屋然とした部分が同居していて面白い。
この付近には見られなかったが、富岡ICに到着する前には、バスの窓から特徴的な養蚕用家屋が沢山みられた。屋根の上に風を取り込むために突き出した特徴的な通気口が開いている。
夜明け頃前にとった桑の葉を二階で日々大きくなるお蚕様にあげると、それはものすごい食欲で、葉を食む音がいまでも素の耳に残っているそう。

倉庫の向かいには富岡市役所。すぐそばに市立図書館があったらしい。「ファーブル昆虫記」を盗んだ素は司書の人に追いかけられたとか。色々悪行が露見してきます。

倉庫を少し進むと諏訪大社にぶつかります。小さいお社はほんとに古いなあ。

こちらが本当のお社です。まだ各家庭にテレビなどなかった当時、境内の一角には街頭テレビを見る人が集まっていたそうです。

さてそろそろ、鳥居をぬけて製糸場に向かおう。天気は晴れたり曇ったりの繰り返し、コスモスがさわさわ咲いてます。

南下していくと、寂しい商店街を進んでいくかっこうになります。駐車場が目立ちます。
あれ、この駐車場の奥にあるのは、酒蔵?

見上げるばかりのがっしりとしたフランス組煉瓦の蔵だね。どうやら、ここはかつてトミラクさんという酒屋さんがあった場所らしい。

蔵の裏手に回ると、鍵の下に「トミラク」の文字が。
ここは素がじいちゃんに頼まれて、夜道をおびえながらお酒を買いにきた場所だったのです。貧乏徳利を抱えて行くと、お店の人が樽の栓をきゅっと抜き、とくとくと注いでくれたとか。ラーメン屋さんまでの距離さえ遠く感じたのだから、ここまでの夜のお使いは、さぞかし怖い体験だったにちがいない。何しろ街灯もろくにない真っ暗な道だったそうですから。

後から寄った喫茶店の奥さんにこの酒屋さんのことを尋ねると、もうお店は富岡にはないけれど、トミラクゆかりのお酒を扱っている店があると教えてくれました。結果、「聖徳」というお酒が買えて、さらに嬉しそう。呑むのが楽しみです。

さらに南下して、この角を右折して進むと、富岡製糸場はもうすぐです。少しずつ活気が出てきた感じ。
曲がり角に建っているおそらく50年前にもあったと思しき眼鏡・時計店。てっぺんの飛び出した望楼のような部分が不思議だな。