感傷の上州路(日帰り富岡限定 素ヴァージョン)

久しぶりに予定もなく寛いだ連休の初日の夕方。ちょっと足を伸ばして日帰りで出掛けようということになった。あれこれ話しているうちに、いつも口にしていた素天堂の思い出の町、富岡を通る長距離バスがあるということをK氏が思い出してくれた。泊まりがけでの行程しか考えていなかったので、素にとっては意外だったが、調べてみると思ったより可能性は高そうだった。
手許のパンフレットを見ても、それ程の目標もないし、言ってしまえば自分が少年時代に、言ったことのある狭い範囲を歩ければいいのだから、最大半日も見て回れば何とかなるだろうという結論が出た。ネックと言えば富岡での高速バスの降車場が、若干市街から離れていることだが、夏の休みに来たときは、必ず鏑川で川遊びをしていたのだから、何とかなると思った。それが意外な拾いものを見ることができたのだから、行ってみるものだ。
長野方面の西武高速バスは池袋東口の交番脇から出ていて、ほぼ二時間で富岡に着く予定、ノンビリするつもりで早めに出たのだが残念なことに、事故と混雑で一時間ほど遅れて十一時半すぎに富岡に着いた。埼玉県内沿線は普通の田園風景だったが、富岡に近づくにつれて二階建て、大きな窓と切妻が特徴的な「おかいこや」を車窓から見ることができた。インターチェンジを降りてバス乗り場に着くが、人影はない。バス時刻表の案内図を頼りに市街を目指すと、途中でバス停らしきものがあったが、時間が合わず徒歩で町に向かう。
鏑川を渡る橋から上流に向かって写真を撮っていると、先に行ったK氏が上流を指さした。市街側の河川敷で白い大きな鳥が羽ばたいている。子供の時には聞いたこともなかった鶴である。一羽が飛び立ち対岸の高い木立に止まって周囲を睥睨している。野生の鶴などと言うのは初めて見た。
川を越えると市街エリアで、ガイドマップが使えるようになる。目標を既遊の地宮本町に決めて最短距離らしき方向へ向かう。どうやらほぼ合っていたようで、入口近くの扇屋さんが眼に入る。ガイドに会ったお菓子を買い、辺りを見回すが、自分が知っているような建物はない。昔からの仕舞屋はあっても、遠い記憶を呼ぶような感じではない。あったはずの質屋さんも風呂屋さんもなくなっている。二十年ほど前、弟たちと来たときにはまだあった、祖父母の暮らしていた二階建ての長屋は跡形もない。その後が、駐車場と「宮本町まちなか交流館」になっているのだ。質屋さんの名残の蔵は残っているが、五十年前の遊び友達がそこにいたとしても、きっともう、忘れているだろうと思う。
交流館の係の方と立ち話をして、道を隔てた歯医者さんの消息を知る。そのうちに立て込んできたので失礼して、駅方面に向かう。大人の足と子供の足の違いは勿論だが、とにかく目標間の距離が短く感じる。あっという間に予定していた思い出のラーメン屋さんに出てしまった。覚えているはずもない中華ソバの味だが、何となく懐かしい。まだ小学校に上がる前だったはずだ。祖父母に連れられて、神社の境内に設置された公衆テレビで、民謡番組を見せられて退屈で、愚図って連れてきてもらったときに食べたあの味なのだ。
テーブルの脇にあったネーム入りの鏡から、お店のお婆さんたちと、また昔話。祖父と連れ立っていった、今は無きお風呂屋さんの思い出。当然だが、戦争前に廃業した祖父の料理屋など、誰の記憶にも残っていない。
挨拶して、店を出て小学校へ向かう。祖父母の留守番中に遊びにきた事のある小学校だが、今はコンクリートの三階建て、あの頃校舎の北側に会ったブランコは、南側に移動している。隣接した公会堂の入口で休んでいた女性に話しかけて、確認したらやっぱり記憶は正しかったようだ。取りあえず、上信電鉄の駅を確認しようと駅前に出る。
青い、ペンキを塗った屋根にパンタグラフをつけた立派な建物が、宮本町からみえていたがそこは駅付属の公衆トイレだった! 線路に向かって左手に煉瓦造りの倉庫がみえているので、向かうとそこはもと繭の乾燥所とその倉庫だった。勿論、自分が来ていた頃は盛業中で、子供が入ることなどできなかったろうが、今は地産品の瀟洒な販売所になっていて、誰でも入ることができる。
その前が市役所、隣がNTT、向かいがあの諏訪神社という一等地を通り、あの頃繁華街だった堀田屋の通り、よこまちに出る。昔は、バスも走っていたはずだが、あの頃のお店で覚えている店はほとんど全滅。祖父の晩酌のお酒を買いに行った造り酒屋の「冨楽」も、煉瓦倉庫を残して、駐車場である。
昼食時間のせいもあってほとんど観光客を見なかった町だが、目玉施設、「富岡製糸場」に近づくと一挙に人通りが増える。入口付近にあった時計屋さんが風情あり。