サライはいない、では血を吸うフランシーヌは

写真があって文が醸されるのか、文によって写真が生まれるのか、全ての作品で文と写真が絡みあう、絶妙のコンビネーション。裁ち落としでページを覆う、醒めたイメージは若干センチメンタルな地の文を切り裂いて、写真が文に阿ることもなく、独自の空気感が文章に清冽な印象をもたらす。通読して最初に浮かぶのがそんな感想だ。
それが、最も顕著だったのは作品の中心を占める「ビロードの睡り、紫の夢」だ。奇妙なギリシャ人船員の語る人形と吸血の物語。男言葉で語られる妻との愛の物語は、徐々にもう一つの愛の対象、陶器製の人形に取って代わっていく。デカルトの少女人形フランシーヌのように。
俗に落ちた男と女の昔話が、人形がいなければ旅もできない男の物語へと変わっていくその瞬間に現れる、写真に写されたショウ・ケースの中の人形は、まるで、意志を持つ存在のようにこちらを見下ろしている。そこでは写真は文章の説明としてのイラストレーションではなく、描かれた作品の印象を強める重要な記述の一部となっていた。
性悪の美少年、血を吸う人形、不死の料理人、父殺し、母殺し、全ての物語は、ヨコハマという特別な場所で起きた、人の持つ〈罪という宝石〉の八つの面の昏い耀きを映している。そうして、ホテルの関係者を巡って懐古譚を蒐める語り手は、ゆっくりとホテルの記憶に絡みとられ、いつの間にか自らもその一員として、記憶の闇に立ち向かわされることになる。明かりもない暗い螺旋階段での対話は、忘れていたい秘密を暴かれるには相応しい場所であったが、全てを思い出した瞬間、彼女は自分で滅ぼしたはずのあの空間に取り込まれ、華やいでいたあの頃の記憶の中に取り込まれてゆく。
醒めない夢は悪夢だというが、自ら求めて夢の中に留まるものが見ているのは、果たして悪い夢なのだろうか。