『黒死館』語彙もあった 「レオナルド・ダ・ヴィンチ展−天才の肖像」

画面の上の奇妙な瑕瑾に引きずられて、思わず長い話になってしまったが、もちろん展観はそればかりではなかった。今回は出展もとがミラノの「アンブロジアナ図書館」という特殊な施設だったので、普段の美術展ではお目にかかれない展示物も多数出品されていた。

一番興味深かったのは、数学者でレオナルドの協力者でもあったルカ・パチョリの『ユークリッド原論』やレオナルドが挿絵で協力した『神聖幾何学』の善本にお目にかかれた事であった。ミケランジェロラファエロのように、工房を大きく作らなかったレオナルドにとって、直接の影響は目立たなかったかもしれないが、二世代後に登場するマニエリストたちにとって、レオナルドの幾何学や、網目模様の構成が強い影響を与えていたろう事は推察できる。
絵画作品そのものは、彼にとって厳格な構図と重厚なタッチで、古典と呼ばれるべきだったかもしれないが、別の形で後進にアイデアを与えていたのだろう。と偉そうに贅言を重ねたが、実はアンブロジアナ図書館だから見られたある本が実は今日の本題なのである。
ミラノといえば、レオナルドが円熟期を過ごした土地であり、ミラノでの業績を伺わせる豊富な手稿を所蔵しているのでも有名だ。その中から今回は、本人が当時最も力を入れていた軍事、技術関係のデッサンが目を楽しませてくれた。
レオナルドがミラノ宮廷に仕官するときに、最も力を入れていたのが、軍事技術者であった。レオナルドを、簡単に「万能の」と形容するが、実は当時の芸術家(アーティスト)は、すべて技術家(アルティザン)でなければならなかった。それは、当時のミケランジェロが、「システィナ礼拝堂」にフレスコ画を描き、ラファエロが「ヴァチカン」の改装を任された事でもわかる。
しかしどれだけ天才でも、天賦の能力だけで機械や武具を造るわけにはいかない。何か、参考資料が必要だったはずだ。そんな隙間を今回の展観で埋めてもらえた。「レオナルド 思考の迷宮」と名付けたコーナーがそれにあたった。アンブロジアナは古い歴史をもつ図書館/美術館であり、その特性を活かして、レオナルドの蔵書メモに始まる、自身の科学思考を検証する素描の展観から、パチョリとの共作による数学的業績、直接触れたかもしれない書物や、地図などの同時代の哲学や実践科学の稀覯本に至るのである。
その中で素天堂の最も驚いたのは、ウェゲティウスの登場であった。ローマの戦術家で、実戦的な記述と奇矯な挿画によって、西欧中世に大きな影響を与えた人物で、もしや『黒死館』に登場するウィチグスのモデルではないかと思っている、まあ、重要な人物なのである。
それは、1494年ローマで発行されたラテン語の五篇の論文の編纂本で『軍事論集 Scriptores rei militaris』という。ウェゲティウスはその巻頭に『軍事について De re militari』が収録されているのである。帝政ローマ末期の書物が、千年を経て、レオナルドの時代に生きていたのである。会場で、挿画ページは見る事が敵わなかったが、あの中には、レオナルドも顔負けの武器が描かれていたのだろうか。