「海に行きたいわ。海には空を飛ぶ魚がいるんですって。きれいでしょうね」


苦労して手に入れたヴィデオで何度も見ているはずなのに、スクリーンでは四十年ぶり二度目の出逢いだった『シベールの日曜日』。美しい公園を背景に描かれた、単純に過去を失った男と名前を奪われた少女の純愛物語だと思い込もうとしながら、感じていたいくつかの違和感がこの作品にはありました。運命に虐げられるだけの薄倖の少女だと思っていた〈シベール〉はもっとずっと自らの属性を自覚していて、知り合ったその男に厳しく奉仕を求めていました。
冒頭のスチルで見せる眼差しで明らかなような、少女の形に隠れたその妖しさの基はなんだったのでしょうか。暫くぶりに見た本編は、その謎をほぐすどころか、さらに違和感を深めるものでした。それについて、蒙を啓いてくださったのが、こちらのblogでした。こちらですべてではないにしてもおおきな神話的な謎は解かれていました。

日曜日の公園で繰り広げられる二人の会話のなかで、印象に残っていたのがタイトルの台詞でした。池の畔にたった樹をを私の家といい、水面にできた反映を私たちの世界というこの少女にとって、海と空を現す「空飛ぶ魚」は自分の分身だったのかもしれません。
その魚に東京駅で逢ってきました。ヨーロッパの古い神話となど、縁もゆかりもない、博物画の展示でした。
ある駅で見かけた愛らしい、河豚の姿に魅せられたのですが、向かい側のホームのポスターでは詳細もわからなかったところ、ある方のTwitterでその展覧会を確認できました。新装なった東京駅ステーション・ギャラリーでの「大野麥風展」がそれです。
ここで見せられた「大日本魚類画集」は、同じ頃の杉浦非水がプロデュースした『非水百花譜 』とならぶ木版画としては超絶の逸品だといえます。
お目当ての河豚もでしたが、精細で美しい木版技法の極限で描かれた作品は、魚好きの素天堂にとって、涎も垂れんばかりのほんとうに美味しそうな魚たちでした。多くの博物画が謂わば遺影集だとすれば、麥風の作品は生き生きとした遠足のポートレートのような印象の作品群でした。

そんなポートレートのなかで、「シベール」の台詞を、フッと思い出させてくれたのがこれでした。大きくうねる青い水面を下に、溶け込みそうな碧さで飛ぶ「トビウオ」たち。これが、「シベール」が夢見たあの魚だったのです。