白き日旅立てば不死 荒巻義雄 早川書房 1972

 30年ぶりの再読だったが、以前PUHIPUHIさんご指摘の、この作品における重要なベースであった、サド「美徳の不幸」がらみの設定を全く意識の外に置いてきていたのにちょっと驚く。
 西洋におけるエロティックな美術や文学は嫌いではない。と云うより割合積極的に追いかけてきたつもりだったが、若い頃からなぜかサドの作品は避けてきた。きっと自分のなかに何かあるのかもしれないが、意識的にサドから遠ざかろうとしていた結果かもしれない。もしかすると、あまりにも渋澤さんの根幹に触れてしまうのを、内心恐れていたような気もするのだが。例の夜、http://homepage2.nifty.com/weird~/kitakamakura.htmせっかくサインをくれると云う時、他のみんなは出たばかりの角川文庫版のサドにサインを貰っていたのに、生意気にも自分だけは、創元推理文庫版の「世界怪奇小説全集5フランス編」にサインして貰ったりしていたのを思い出す。

 そのうえ建築家であった作家自身のコメント「あの異端の文学者は、近代の怪物的な作家であったと同時に、空想的な建築家でもあったと白樹は考えていた。」にショックを受ける。サドを、そんな風に考えたこともなかった! まぁ、読んでないのだから当然か。
 ウィーンという特殊な街を舞台に、時空の裂け目と云う純粋にSF的主題の衣をかぶって展開されるこんな作品が、30年も前にこの日本で発表されていたのだ。あまりにも生ではあるが、マニエリスム的方法論によって構築される小説作品としては、勿論嚆矢と云っていいだろう。さらに、その当時の素天堂には知るべくもない“ヨーロッパ”のもう一つの顔が、この作品には横溢している。

一三世紀の後半から三〇〇年の長い年月を費やして建設されたこの寺院の様式は、全体としてはゴシック様式だが、一部にははっきりとロマネスク、ルネッサンス様式も入りまじっていた。時の層の累積がそこにあった。白樹のいまいる世界のように不調和なのだ。だが遠くからみると美しかった。何事も遠くからみた方が美しいのだ、と白樹はおもった。白樹は、いつも幻視している。遠くの方を……。美しいものは遠くにしかないのだ。いつも……。85p

 本文中程に書かれたこのシュテファン寺院に対する感想は、'03年ウィーン日記6月13日での自分の感想

フラフラ歩いているうちにウィーンのへそ、聖シュテファン寺院の前へ、催し物が前の広場で開催されていてその音が、あんまり音のしない街で妙に耳障り。
たくさんの団体さんと一緒に流れるように教会の中へ、薄暗いせいかもしれないが教会の高さ、広さを実感できない。明かり採りのステンド・グラスも後陣の一部に使われているだけ。多分自分の物足りなさはその明るさのせいかもしれない。正面側の上にパイプオルガン、低音部は身廊中心部の柱にまで達していた。時間をかけてゆっくり見れば感想はまた違ってくるかもしれないのだが。

と妙に一致している。もしかすると、自覚はしていなかったが自分のなかの幻想建築に対する嗜好は、この作品から立ち上がってきていたのかもしれない。と、ちょっと愕然とした。

さらに一〇数年を経て「聖シュテファンの鐘の音は」で荒巻は、もう一つの異界としてのウイーンへと踏み込むことになる。そこでは、「白き日」では不満だった異界描写が拡充されて行くことになるだろう。