哲学者としての執事 月長石 (創元推理文庫 109-1)

とりあえずと買ったときにもうヨボヨボだった。カバーもない裸本。
買ったからといってそうそう読める分量ではない。なにしろ創元推理文庫で七七〇ページ。あの「黒死館」を包含する大冊、日本探偵小説全集第六巻「小栗虫太郎集」を軽く凌駕する分量にビビって、つい四日前まで棚の重しになっていたものだ。勿論つい先日も「モンテ・クリスト伯」を読み終わっているのだから、長い作品に違和感があるわけではないが、“古い”=“退屈”という先入観が古典的な作品を読むネックになって、つい、積ん読本になってしまうのは、御同輩諸子同様である。それが、用あって、参考に読まなければと思い立ってから三日間、夢中になって読みふけってしまった。
冒頭二分の一を占める主要人物のひとり、ダニエル・デフォーに心酔し、「ロビンソン・クルーソー」を聖書とあがめる、当家の老執事、ベタレッジの書き出しにまず吸い込まれたのである。「おおっ、これは意識の流れではないかっ! トリストラム・シャンディではないか。ボリス・ヴィアンも真っ青な前衛文学ではないか、このじじいは何者だ。」が読み始めの感想だった。ここから始まる、英国執事文学の歴史のなかで燦然と輝くガブリエル・ベタレッジの手記で、この伝奇的な宝石の行方をめぐる物語は始まってゆくのだが、言ってしまえば宝石がなくなっちゃってみんなが困る、だけのこの話を、延々読ませる構成力と、登場人物に対する描写は半端ではない。数多の小説読みが、この作品を激賞するのも、読んで初めて納得できた。全体を流れる大きなユーモアは、ある意味英国文学最良の実例であり、例えば「名探偵登場」のアレック・ギネスや「大逆転」のジョン・ギールグッドに通づる、勿論あの「ジーブス」に至る、哲学者としての執事の歴史はここから始まっているのだな。と納得することができたのである。うーん、用あって、なんて読み方でこの作品とであうのは絶対失礼なことだったなぁ。もっと早く読んでおけばよかったと反省する今日この頃である。