ダーガーの魔

あの地獄の真っ最中に品川の坂を上り、八山橋を越えて、久し振りに「原美術館」をおとずれた。お目当ては最終日の『ヘンリー・ダーガー展」である。素天堂の「この展覧会、きっと空いてるよ」という願望は、同じ方向に向かう人並みの多さで、まず砕かれた。
会場は、茶色く変色した、重量さえ感じられる初期のコラージュの展示「the Battle of CALVERHINE」(ダーガーの作品には発表を意図した表題はない。作中に書かれた文字による仮題)で始まる。多分今回の展覧会は、これが肝で、後の展示はその注釈に過ぎない、と言ってもよかった。多分このコラージュで表現しきれなかった個々のエピソードに関するイメージが、厖大な彼の作品群に拡がっていったのだろうから。少女たちのつかの間の息抜きを中心とする本展示の、埋め草的に各所に展示されていた将軍たちの肖像とか、国旗、ジェニイ・リッチイの地図、それにヴィヴィアン・ガールズの原イメージなどのいわば、自己確認としての初期の作品群は特にその感がする。ヘンリー・ダーガーは彼の作品を誰にも見せず、自分の思い描く世界に囲まれて一生をその中で過ごした。本来、自己表現欲というのは、人に対して開示する欲望なはずなのに、彼の表現は、いつも彼の中に向かっている。ダーガーに取りついた表現の魔は、自分の能力のあるなしに拘わらず、うちなる、彼の持つ全世界を発現させずには置かなかった。

だから、考えられる限りの技法を案出し、彼の周辺をとりまく総てのイメージを画面の中に取り込み、埋め尽くそうとした。非現実といいながら、彼にとってはもっとも重い筈の現実を、何としても実在化したい、そんな迫力が裏表に描かれた総てのシーンにぎっしり詰め込まれているのだ。今になって自分と関係ない誰かが、その作品を見て「こいつって才能あるな」何ぞという間抜けた感想を漏らしたとしても、彼は無表情にベンチに座った写真のように、笑いもしなければ、怒りもしないだろう。そんな感想は、彼の世界とは何の関係もないのだから。
引用した作品は、今回の展示品ではありません。