今やっと、『第三の演出者』。

最終巻。まず収録されたエッセイの〈乱歩への真情〉という、まるでフーガのようなテーマのリフレインの心地よさに身をゆだねる。劇評家という、まったく商業作家ではない戸板康二という存在を、ミステリの世界に誘った乱歩の業績は小さなものではない、その貴重な証言である。福永武彦曾野綾子などの純文学者を、ミステリーの世界に誘った、乱歩晩年の仕事を貶めるつもりはないけれど、結果的には探偵小説的要素の拡散につながったのは、残念ながら事実であったと思う。ただ、それらの既に作家として一家をなしていた人への慫慂も、古い探偵小説というジャンルの壁を壊す上での成果であったことは確かだ。本場英国の、高級な趣味としての〈探偵小説の執筆〉を念頭に置いていた、その頃の乱歩の活動は、約半世紀を経て、今結実しているように思われる。清張以降、いわゆる社会派の勃興と共に、探偵小説氷河期を招来してしまったことは、乱歩の思惑以上に探偵小説を囲む種々の事情が進み過ぎてしまったせいなのではないだろうか。それは乱歩の責任ではない。
そんな大それた感想を持つのも、素天堂と、〈中村雅楽〉という、稀有の探偵とのいわば、個人的な、関係の故である。
最初にこの作品を手にしたのは、濃い灰色の瀟洒な、ケースといいたい、薄手の箱に入ったフランス装の本で、生意気盛りの高校生には、ちょっと中身のうすい、『ペテン師と空気男』という、奇妙な味の乱歩最後の作品も入った〈前・大ロマン〉の桃源社から、刊行されたシリーズ企画の一冊だった。乱歩の旧作を探して、城南地区の古本屋を軒並み漁り歩いた頃の、氷河期における印象深い発掘物の一つだろう。貸本流れでハンコのべたべた押されたボロボロの本でも、手に入ればうれしかった時代である。横浜の裏町でカヴァーのとれた、塔晶夫『虚無への供物』をみつけたのも、その頃だった。雅楽ものに関していえば、やっぱり最初の、木版画のカヴァー装であった『車引き』は見付けづらかった、というより、もう既に古書価が付いていたので、高校生には高嶺の花であった。とにかく、あれば安いが、店頭にないという時代が長かったと思う。『ラッキー・シート』も『松風の記憶』も、そんな風に一冊ずつ見付けては、楽しんでいた時代のものなのである。今まで再刊の機会に恵まれなかったこの作品も、第一級の劇評家としての戸板康二の世界が、濃厚に表現されたもので、陰鬱なオカルティズムの匂いの漂う謎と、雅楽の明快で、明晰な解決の対比が見事な秀作であった。
そんな時代の回顧など、この五冊に及ぶ大事業の前では屁でもないけれど、自分の記憶の中にしかなかった最高の作品を、こうして読み返す機会を与えてくれた版元東京創元社と、編者の日下三蔵氏にはいくらお礼を言っても、言い足りない。丹念で網羅的なこの方の編集手法は、作品の散逸を防ぎ、再評価を促す最良のかたちである。なんて言う、紋切り型はもう既に耳胼胝であろう日下さんには、こんな素敵な本にしてくれてありがとう、というしかない。本当に至福の日々でありました。