愛すべき惡魔と死 芬蘭の畫家ジムベルグ 加藤朝鳥

 茲に掲げた二つの繪、即ち『死の庭園』と『双兒を抱いた哀れな惡魔』とは表象畫派の作品として誰しも面白く感ずるものであらうと信ずる。
 シムベルグHugo Simbergの死んだのは千九百十七年であるから、フインランドが新興國として歐州大戰に依って獨立した時よりも三年ばかりはやい。しかもその享生は僅々三十八歳であつたから、今すこし生きのびて居たなら、彼は獨立國の畫家として新境地を開き得たかも知れぬ。歐州戰亂のおかげで獨立した新興國は、どの國だつてもその文學藝術において盛な氣焔をあげつつあるのを見ても、彼の夭折が惜しまれてならぬ。ましてフインランドは獨立後の文化において最も目ざましい發展をなしつつあるから。
 或る批評家はシムベルグを英のブレークと對照し、また或る批評家は獨のベクリンと併稱して、居る位だが、その觀方はいろいろであるにしても、表象派の一頭目たる資格は、此の二枚の繪を見ただけでも十二分だと思ふ。彼は病的で健康と云ふことを知らぬ人間であった以上に精神上に狂的傾向が著しかつたと傳へられて居る。だがその繪は決して陰鬱的でもなく、また悽凉な豫言者的風格もなくてむしろその正反對に頗る快活でユモラスで現世的なところに大きな特色がある。獨逸の一評家は表象派を三つに分類して、頽廃期的兼女性的(デカデント、フェミニスチツシエ)快樂的兼超人間的(ヂオニツシ、ユーバーメンシエリツヘ)及び神秘的兼元始的(ミスチツシユ、プリミチーフエ)としたが、强ゐて此の分類にあてはめて見るならば、ジムベルグの繪は第二の快樂的兼超人間的と云ふ特色を十分に持つて居る上に第三の神秘的超人間的と云ふことにも及んで居る樣に思ふ。彼は生存中頗る愉快な性格の持主であつて、笑つて居る病人と云はれて居た位であり、おそらくかうした性格が此の繪の樣な幻影的奇想天外を齎すことになつたであらうと思ふ。彼はフインランド畫派中色彩で語る物語作者と云はれて居るが、その意味は單に挿畫的に物語を描くねでなくて物語そのものを繪によつて自から創作して行くことだ。此の點で彼の繪は一點一劃全部が獨創的だと云つていい。
 彼が好んで描く題材は『死』と『惡魔』とであるが、しかし彼が描いた『惡魔』や『死』には少しも凄味がなくて、むしろ愛嬌たつぷりと人を曳きつける様なものがある。云はば彼の惡魔はバガボンドか村の呑助みたいなもので、うつくしく咲いた薔薇の花のほとりで牧歌の笛を吹いて居る頗る音樂的惡魔を書いたり、または茲に掲げた『双兒を抱いた哀れな惡魔』の如くお人好しの村の女房に食ひものを乞ふて居る有様など、頗る奇想天外である。フインランドは湖水の多い國だけに此の惡魔の如きは頗る日本の河童を聯想させるものがある。ジムベルグが描いた『死』もまた決して恐ろしい『死』ではあり得ない。『死の庭園』の中の骸骨を見ても、何んだか親切な伯父さんとでも呼びかけて見たい樣な『死』である。病弱なジムベルグはその夭折にいたるまで、おそらく此のやうな愛嬌たつぷりな『死』によって肩を叩かれて居たのではあるまいか。此の『死』の伯父さんたちが笑顔で花園の世話をして居る圖は、見れば見るほどユモラスな慰藉が得られる。作者ジムベルグその人の空想力に、実にこだわりのないのんびりとしたユーモアがあつたことが偲ばれ、案をたたく以上に人生を叩かせる。何んとなく寫樂から皮肉を抜いてその代りにユーモアをいれたと云ふ感じだ。生方敏郎君の著述の装幀などにしたらもつて來いではあるまいか…… ……しかもジムベルグは涙をとほしてほほえむで居ると評されて居る。彼の繪にはテクニツクの上で別にとりたてて云ふほどの苦心も見せず、筆觸で他の目を眩惑しやうと云ふやうなことはすこしも無い。否時としては頗る稚拙な初心的ものさへある。手ばなしの無技巧と云つた趣だ。しかしこの趣が一層よくその題材にも動機にも適合して居る。彼の夭折は惜しむべきだが、しかしまた彼がフインランド畫派の表象派時代にだけ生き、それから後に生きのびなかつたと云ふことは或は彼の繪の爲に幸福であつたことかも知れぬ。表象派時代にのみ生きて居たからこそ、後の寫實だの現實だの傾向からくる主義に縛られることなく自由無礙にその空想の翅をひろげることが出來、もつとも全幅的に表象的活動をなすことがゆるされたと云ふものである。何しろ奇抜な樂天家だつた。 愛すべき惡魔と死よ──。
『中央美術』昭和三年四月號Avril−1928 No.149所載