咀嚼力

森口多里という名前は少なくとも美術史に関心のある人であれば、ご存じのことだろう。大正から昭和初期にかけて洪洋社から出版された広範な『・・の文化と建築』シリーズや、一度は眼を通しているはずの通史『近代美術』の著者である。だから、松屋の古書展でこんな本を見つけた時にはビックリした。
『異端の畫家』大正九年 日本美術学院刊
西洋美術の研究者が、即啓蒙者でなければならなかった黎明期に、自分の興味を前面に押し出して、一冊の本を書き上げたこの膂力は、世紀末から近代への橋渡しを成し遂げた森口の、広範な知識と鑑賞眼を物語っている。特に冒頭の「悪魔主義の畫家」で、当時としては、先進的なビアズリーとロップスを語り、巻中の「唯美主義の藝術家」で、ホイッスラーとワイルドを並列する西欧美術への理解は、さらにホイッスラーの中にひそむ抽象性に着目して、現代抽象美術の始祖、カンディンスキーの「畫論」の紹介へと繋がってゆく。

こうやって、当時の文献に出逢ってみると、シンベリの項でも述べた通り、一世紀前の知識人たちの並々ならぬ情報収集力と咀嚼力に驚くのみである。もっとビアズリーやワイルドについての彼の論を詳細に語ってみたくはあるが、入手から半月経ってもこの有様である。後日をお待ち頂きたい。