時とところのアラベスク(四)

物心の付き始めは、宇宙少年だった。スプートニクの光跡を夕刻の空に追い、宇宙を飛ぶライカ犬の動向に一喜一憂する小学生であった。ガガーリンの「地球は青かった」やテレシコワの「ヤー チャイカ私はカモメ」に感動していた。彼らを大気圏の外という途轍もない空間に運び出す、ロケットという道具が、実際には跳ねも飛びも出来ない、自分たちの機能を増幅するMACHINEという存在の、窮極のかたちに見えた。
そんな自分の身の回りは、自転車や大八車、よくても、自動三輪車が移動の手段だった。家族も含めて、知り合いの誰かが自家用車を持つ、などというのは夢でしかなかった時代だ。バイクでさえ、持っていれば羨望の眼差しで見られたのだ。乗用車といえば、開業医のフォルクスワーゲンか、駅前のタクシー会社が所有する、ドイツ製のオペル・カピタンがハイヤーとして使われていたくらいだった。線路脇の県道も、せいぜいがマカダム舗装(路面に砂利を敷き詰めてローラーで圧着する、アスファルト以前の簡易舗装)で、たまに通る車の車輪が小石をこするジャリジャリという音と、東急のボンネットバスの出す排気の残り香が日常の自動車のイメージなのだった。国内のメーカーも、トヨタ以外は自社生産が出来ず、日産は英国のオースチンいすゞが、やはり英国のヒルマン、日野自動車がフランスのルノーノックダウン生産していた時代だ。

そんなメカずきな子供が、乗用車の素晴らしさに開眼したのは、中学生のアルバイトで、近所のゴルフ・クラブに出入りするようになってからだった。今考えれば、それほど大きくもない駐車場を埋める、ゴルファー達の自家用車のヴァラエティが、プレ・モータリゼーション世代の中学生に与えた影響は計り知れないものだった。バイトの行き帰りの道筋にあった輸入物の模型屋で見かける、AMTやマッチボックスのプラスチック・キットが、発火点だった。近所のバイク屋で、細々と扱っていた、マツダR380やスバル360のチラシ程度のカタログを集めて友人と競うのが、遊びになった。最初のうちは、新聞広告のカタログ請求券を切り取って、送ってもらうのが関の山だったが、届いたカタログの品評会が楽しみだった。乗用車の生産が、事業として成り立ち始めたのである。
そのうちにここで書いたような経緯で、身近な古本屋を知り自動車雑誌のバックナンバーを集め始めた。情報が、郊外の貧乏中学生にまで行き渡ってきたのだ。国産メーカー以外の自動車を輸入販売する、いわゆる〈外車のディーラー〉という存在が見えてきた。しかもそれらの大多数が、密集している地域さえあるではないか。黒ズボンに白シャツ、履き古したバスケット・シューズのみすぼらしい少年の〈赤坂溜池〉デビューである。
  

休日の朝、家を出て、小一時間歩いて、多摩川を越える。玉電の早朝割り引きで、渋谷に向かい、品川方面の都電に乗り換えるのがルートだった。終点まで行かずに、一の橋で降り、高輪の山を越えて、第一国道にでるのがスタートだった。昔の子は歩くのをなんとも思わなかったから、そこから、芝を抜け、虎ノ門、溜池から、日によっては、六本木方面まで歩いたものだ。今思えば、当時のディーラーは余裕があったのだと思う。よく、田舎の中学生風情に、あの豪華なカタログを、惜しげもなくわけてくれたものだ。その行脚は三年程続いたが、ある国産小型車メーカーのディーラーで、購入を勧められて、趣味のカタログ収集の時代は終わった。
素天堂は、61年からの四年間を日本自動車界の〈カンブリア期〉だと思っている。スバルやマツダの軽自動車の発売から始まった日本のモータリゼーションは、それまでの泥臭い走ればそれで良しという、商用車の論理から解き放たれて一挙に、工業デザイン面での向上と、車社会がもたらす〈幸せの構築〉へと進んでいった時代だった。後発のダイハツにしても三菱にしても、個別の車種をあげるまでもないと思う。総てのメーカーがそれまで押さえ込まれてきた、乗用車の需要と供給に初めてシンクロできる時代になった、排ガス公害も交通事故の多発もまだまだ先の問題だったその頃に、まだ夢の残っていた〈その〉時に赤坂の街を歩けたのが、素天堂の幸せだったのだ。

まだまだ元気だった欧州メーカーの数々、いまは見る影もないビッグ・スリー、政治と経済の道具となって、紆余曲折を辿った半世紀を思うと、勝手な感慨が浮かんでくる。その時集めたパンフレットや切り抜きの反故紙が、自分にとって思いもつかない価値を見出されて手元を離れていく。そんな状況に戸惑いつつ、声をかけてくださった方々に感謝したい。今、整理している古雑誌のグラヴィア写真は、そんなことを思い出させてくれた。
追記 mixi仲間のご指摘により、女性宇宙飛行士名を修正した。スラブ系の女性名をチャスラフスカというのは、東京オリンピック世代の通弊であろう。と、勝手に言っておく。