違和感のもと


前回書いたように、会場で感じた違和感の原因は、ある小展覧会の小さな図録に掲載された文章だった。発行年は1978年、画廊名は「かんらん舎」。巻頭二ページを使って書かれた、小野忠重の「回想の藤牧義夫」で彼の知る藤牧像と最後の邂逅が書かれている。自らの画業をすべて小野に託し、隅田川に消えたはずと書かれたその文以外に若くして姿を消した版画家を知る手がかりはなかった。それは個展を企画した画廊主大谷にとっても同じ筈だった。昭和十年という、当時でさえ気の遠くなるような過去に消えていった存在は、それを知るという老大家の言以外に証言さえなかった。

『君は隅田川に消えたのか ―― 藤牧義夫と版画の虚実』駒村吉重 講談社2011は、生誕百年を期して開かれた群馬県立館林美術館での展観に先立つ五月に刊行された。評伝定番の少年期の記述に始まる、ドキュメンタリーは藤牧の版画との出会い、さらに技術の進展について書き進んでくる。しかし、第六章にいたって突然現代の近過去に話が飛ぶ。それが冒頭の「かんらん舎」についての章なのである。表面的にはなんの問題もない画廊展に良くある図録なのだが、そこに書かれた資料(どころかすべての作品まで)の提供者との、妙に蟠りのある関係について書かれた件が結末に及んで、書かれなかったある疑問点へと辿りつくのである。
「かんらん舎」での藤牧展はある意味成功であった。ある意味どころか、某国立美術館での一挙買い上げといえば、実際には大成功と言ってもいいだろう。しかし若き画廊主大谷芳久と協力者であった大御所との関係は大きな齟齬を持ったまま不自然な形で終了した。そこにもう一人の美術関係者が加わってくる。『芸術新潮』で長い間書き続けられた名エッセイ『気まぐれ美術館』の著者、洲之内徹である。開廊当初から見知っていた洲之内に大谷が別のルートから新発見した『隅田川白描絵巻』を含む作品群をみせたことから、洲之内が強い関心を藤牧に抱き、彼のエッセイでとりあげたのである。彼のもとにある美術館員が訪れ、藤牧作品のいわばヴァージョン違いを発見して見解を求めたのである。版画は当然のことながら、版画作品の前に元版たる木版なり、銅版なりが存在する。それは作家によって数度手を加えられ、ステーツというヴァージョン違いが作成されることが多い。例えばピラネージの作品『牢獄』なども、数次に渉って改訂が施されたことがわかっている。
しかし持ち込まれた作品は、作家による改訂とは思えない改竄が見られたのである。詳述は避けるが、ここから残されていた藤牧作品の画質に対する奇妙な違和感が解きほぐされ、微妙な他人の手による加筆が見えてくる。この丹念で執拗な作業が本書の白眉であり、書かれざる軋轢が作家とその知人との間にあったのではないかということが、丹念に繰り返される真贋に関する記述の中に、徐々に現れてくる。
勿論、昭和初年とはいえ東京都心での行方不明者を誰も捜さないはずはない、藤牧の二人の肉親も東京にいて、一人は失踪当夜に会っている。警察も調べたはずだ。しかし、とうとう画家は発見されなかった。唯一の証言者たる、画家の作品の後を託されたと称する後に版画界の御大となる、新版画集団の代表以外はその最後を見たものはないままだ。
勿論、その時におきたことを想像するのは自由だが、なんの状況証拠もないままに人生最大のトラブルを明言することはできない。しかし、それ以外に御大のその後の不可解な行動に理由をつけられないのも明らかなのである。
     
今回展示された『給油所』                  1995年館林で展示された『給油所』
自ら行った若き日の展観の責任から「藤牧静夫」の画業の謎を解き明かした、画廊主大谷の美術人としての責任の取り方も読んでいて清々しかった。美術ミステリとしても一級品だが美術ドキュメンタリーとしてもお薦めできる一冊であった。