日の當つた哲学

このところ、何となく鬱状態のなかで、最近手に入った大正期の美術本に漫然と眼を通す。

戦後の復刊だが矢代幸雄『太陽を慕ふ者』角川書店1950。先日取り上げた森口多里とは正反対のアカデミックな美術史の大御所である。立場こそ違え、いわば、我々はこの人達が独力で切り開いてきた西洋美術という大きな世界の海を漂っているだけなのかもしれない。
大正期欧州での、矢代の西洋美術史学の先駆者としての自負の重圧と、初期のルネサンス画家研究の超大作『Sandro Botticelli』の制作という、苛酷な作業の合間に書き送った生活の報告である。
とはいえ、そこにあるのは著者が序文でも言う通り、文字通り若書きの、文学臭が全編に漂うヨーロッパ便りである。三十代前半に遭遇した、第一次大戦後のイタリアを始めとする、芸術鑑賞を中心とした、諸国の貴重な証言でもある。虚実取り混ぜながら、乾いた文体で現地の女性との交流を描く「アルプス山中にて」やフィレンツェヴェネツィアでの「女の話」などは、同時代のポール・モーラン『夜とざす』と深く共通する薫りがする。本人も云うとおり、学究としての自己規制がそれを続けることはなかったが、十分文学として通用するものだったのではないだろうか。
さらにヨーロッパ各地での作品鑑賞の報告には、研究者としての歩みを始めながら、内部に湧き上がる、芸術自体に触れあえる喜びを伝えたい欲求との矛盾が、各所に大きく口を開いている。学究としての矢代は、その後西欧美術と日本美術を、大きな視点で捉える視座にたってその作業を続けるが、芸術愛好者としての純粋な喜びに関しては、後に結実する、随筆として書かれ続けた、レオナルド関係の記述や、受胎告知に関する言及で、特に顕著である。
証言といえば、美術に限らず、ニジンスキー以後ディアギレフ存命中のバレー・リュッス「クァドロ・フラメンコ」1921の貴重な目撃譚さえある。パブロ・ピカソによる舞台意匠である。その感想は柔軟で、矢代が近代美術にも関心を持っていたことが解る。その一部を紹介する。

寶石細工の職人の如く色の配列のうまいレオン・バークストの舞臺面が閉って、今度幕があがると、立軆派キュビストの畫家パブロ・ピカソの描いた、目の痛い程、黄、赤、緑、の熱色面を粘り合せた家の前面ファサードが飛び出して來る。ちょつと南洋の蠻人の縞模様を見るやうだ。柱が中心に向って傾いてゐる。注意の方向を指示する傾きだらう。地震のやうに歪んだ窓には、渦巻の黒線で隈どって、血のやうな窓掛を下げてゐる。四つの窓の三つから、ゴオギャンのふでよりももつと簡潔に描かれた紳士と淑女とが、望遠鏡で中央を覗いて居る。觀者も何だと思つて、早速にそつちを見る。そこに目の醒める程刺激的の服装をした踊り手の一隊が坐つてゐる。これはまた痛い程明瞭な舞臺面であつた。これならば、如何に神經の疲れた文明人と雖も、目をはつきり見張るであらう。さうして置いて、きゆーつと注意を中央に絞るやうに、吸心的に仕込んである。同書76-77p

  
http://muguetdeparis.com/2008/10/30/picasso-et-la-danse/
このあと、当時の名歌手達の、フラメンコの歌と踊りについての描写が続くのだが、残念だが、ここら辺で、引用を終わる。勿論、その記録も一級品である。
欧州での滞在のほとんどをイタリアで過ごした矢代にとって、例え〈ルーブル〉があっても、冷たく暗いパリの気候は受け入れられなかった。矢代の望む欧州とは春のイタリアにほかならなかった。全編をおおう温かく注ぐ太陽への憧れはかれの欧州への憧れのすべてであり、それ故のルネサンス研究、ボッティチェリ研究だったのだろう。イタリアでの空気を彼はこういう。
なにもかも、それでいいやうな氣がする。全部を承認する。有るがままが正しい。日の當つた哲学だ。同書151p